「おまえ、それ、やめろよ」
不機嫌そうな言葉と共にべちん!と手のひらを払われて、凛はムッと頬を膨らませた。
「それってなんだよ」
「そういう、ベタベタひっついてきたりとか、触ったり、とか」
凛はスキンシップ過多だ。少なくとも、遙はそう思っている。転校してきた当初から、隙あらば肩を組んできたり、後ろから抱き付いてきたり、時には頬を擦り寄せてみたり、それはもうベタベタと触りたがる。いつだったか真琴に「凛のあれどうにかならないのか」と愚痴ってみたところ、「あれはハルにだけだからねぇ」と苦笑された。
「なんだよ、渚だって似たよーなことしてんだろ」
「渚は年下だからいいんだ」
「ハァ!?なんだそれ訳わかんねー!七瀬のバーカ!」
そう叫ぶなり、凛は「てやっ」と横から遙に抱き付いてきた。
「、おい今やめろって言った、」
「アーアー聞こえませーん!そういえば朝から耳に水が入っててなんにも聞こえねーや!」
「おい!」
教室内でひっ付き合ったまま、ぎゃあぎゃあ騒がしい二人を見ていたクラスメイトの一人が、笑いながら話しかけてきた。
「おまえら、ほんと仲いいよなー」
どこが!と非難の声を上げようとした遙を遮って、凛が「だろー?」とガッシと肩を組む。
「俺ら、なんつーの?もう親友ってか、信頼し合ってるっていうか、マブダチってか」
「いやいや、そーゆーの通り越してなんつーかもう」
「……なんだよ」
ニヤニヤ笑って言葉を濁すクラスメイトをジロリと睨み付けながら遙が問う。
「結婚すれば?ってカンジ」
ぎゃははは!と笑い声が教室中に響いた。二人を指さして笑っているクラスメイト。わかりやすく馬鹿にされていることに、遙は憤りを覚えた。
「なにばかなこと言って、」
「……七瀬」
反論しようとした遙を再び遮るように、凛が口を開いた。なぜだか硬い、真剣な顔をしているので、一瞬気を削がれる。肩に回されたままの腕を振り払いながら、遙は「なに」といかにも不機嫌な声を出した。
「もう隠し通せねーわ」
「……は?」
遙の両手を握り、凛が真正面から覗き込んできた。
「幸せにするよ、七瀬」
きゃー!!と悲鳴のような歓声が上がった。心なしか女子がみな頬を赤く染めている。男子はツボに入ったのか、ひぃひぃ腹を抱えて笑っていた。遙が呆けていると、凛は徐々にその表情を緩め、終いには八重歯を見せて「あはははっ!」と大笑いした。
「おっまえ、ぶはっ、松岡!マジ顔やめろっつの」
「七瀬くんびっくりしてる~」
「二人ともおしあわせにね!」
囃し立てるクラスメイトたちに「大成功!」とVサインをしてみせながら、凛は遙に向き直ると、ニカッと笑って言ってのけた。
「ドキドキしただろ?」
パァン!と派手な音をたてて、遙の渾身の平手打ちが炸裂した。
***
「……ッてーな」
頬を押さえて、凛がぼやいた。わずかに赤くなったそこを今まさに容赦なく、思いきり張った張本人は、組み敷かれ畳に仰向けになった状態でプイと顔を背けた。
「いきなり押し倒されたらびっくりするだろ」
「いや、いきなりってお前な、」
金曜の部活終わり、明日は練習が休みと知らされたので、駄目もとで他校水泳部に籍を置く恋人に連絡してみたら、意外にもあっさり「来てもいい」と許可が出た。晩飯は食べずに来いと言われたのでそうした。鮫柄から電車を数十分乗り継いで、そこから徒歩で十五分。途中のコンビニで雑誌とアイスと飲み物を買って、家に着いてインターホンを押したら出迎えてくれた恋人はエプロン姿だった。
「もう晩飯できるから、座って待ってろ」
「おぉ……」
茶の間に通されて、そこから台所に立つ遙の後ろ姿を眺めた。片手でコンロをひねり、片手で菜箸を掻き回す、無駄のない動作。ぴったりした愛用のハーフパンツは、そろそろ時期的に寒いかもしれない。アイスじゃなくて別のもんにすりゃ良かったかなんてぼんやり考える。もうじき夏も終わりだ。庭の木も葉がだいぶ落ちている。秋の近付く匂いがする。サバの焼ける匂いもする。……またサバかよ。
「出来たぞ」
「へいへい」
向かい合って座って食事する。今日のメニューは鯖のソテーだ。寮の食堂には専属の栄養士が居て、きっちり考えられた栄養バランスのいい食事が用意される。味も悪くないし、何より週3で肉が出る。けれど、凛は文句を言いながらも遙の鯖づくしの献立が好きだった。
「これ味付け何」
「マスタードソース」
「へぇ」
遙は食事中ほとんどしゃべらない。いつもの騒がしい夕食よりも、静かなこの時間を凛は気に入っていた。
食事が済んで、風呂をすすめられて、温まった体をほぐしていたら、湯浴みを済ませた遙が戻ってきて、隣に座ってストレッチをし始めた。背中を押してやると、遙の体が温まって柔らかくほぐれていることがわかった。それで、
(もういいよな)
そう考えて、キスして、押し倒した。
ら、思いきり平手で叩かれた。
「……あのな、俺はすげぇ順序踏んだつもりだったんだけど」
「何かに集中している時は頭がついていかないからやめろ」
「、はぁ……」
思わずため息が漏れる。コイツはいつもこうだ。考えるより先に手が出るというか、イマイチ甘い雰囲気に持っていけない。照れ隠しもあるのかもしれないけど、どうにもその手段が乱暴だ。加減しないからふつうに痛い。
「んっとに、クールだよなお前って」
「なにが」
「こういうことに関して、冷めてるっつーか」
「……」
遙の上から身を退いて、がしがし頭を掻きながら、凛はなんとなく気になっていたことを口にした。
「ハル、お前さ。今まで好きになった奴とかいねーの?」
深く考えて言った訳ではなかった。ただなんとなく、恋愛に関しては自分が知るところ初心でしかなかった遙が、過去にそういった意味で誰かを好きになったことがあるのか、興味があった。少なくとも出逢った頃から自分にとって、遙は既に特別な存在であったから。
十中八九、「水」と答えると踏んでいたが、予想外にも遙は首を縦に振った。
「いる」
瞬間、頭をガツン!と思いきり殴られたような気がした。
「、マジで」
自分が思った以上に衝撃を受けていることに、凛は焦った。否、まさか遙が、遙に限って有り得ない、と当然のように考えていたことに。
「どんな奴だよ、……俺も、知ってる奴か」
声が震える。頭にはたった一人の顔が思い浮かんでいた。ずっとずっと前から、自分が遙と出逢う前から、遙と離れた後も。ずっと変わらずその隣にいた存在。遙がおそらくこの世で最も心を許しているだろう相手。……自分よりも。
凛の言葉に遙は少し考える素振りを見せたが、すぐにもう一度こくんと頷いた。
「よく、知ってる」
目の前が真っ暗になった心地がした。ハル、ななせ、……ハル。今のお前は俺を好きでいてくれてると知ってる。信じてる。……信じたい。でも、もしも、もしもお前が、今でも、まだ。そうだとしたら、俺は、「ハル、」
「……今でもまだ、そいつを好きなのか」
喉から絞り出すような声で問い掛ける。冷たい汗がつう、と背中を流れた。
遙は目を大きく瞬かせて、驚いたような、何かとても奇妙なものを見るような目で凛を見た。
「あたりまえだろ」
すうっと体が芯から冷えていくのを感じた。次の瞬間、凛は遙の両手を畳に縫い付けて、おもいきり唇に噛み付いていた。
「、っん!」
鉄の味が口の中に広がる。勢いあまって唇を噛み切ってしまったことに気付いたが、そんなことは今はどうでも良かった。遙の上に圧し掛かり、その首筋にガリッと歯を立てて、獰猛な気分になるのを必死で押さえながら、凛は呻いた。
「ハル、お前が誰か違う奴を好きになっても、俺と別れてえって思っても、……俺を嫌いになったとしても。俺はお前が好きだ。ずっとずっと、好きだ。もうどうしようもないくらい、俺はお前しか。ハル、……ハル、ずっと俺だけのもんでいて欲しいんだ。誰にも渡したくねぇ」
遙の髪に鼻を埋めて、匂いを肺の中に取り込む。シャンプーの香り。塩素の匂いも、鯖くせぇのも、なんでもいい。お前がいい。お前しか欲しくない。ハル、ハル。七瀬……。
「……知ってるよ」
小さな声で、遙が呟いた。バッと思わず顔を上げると、薄っすら血の滲んだ唇をちゅっと頬に押し当てられた。さっき叩かれた側を。ゆっくり唇を離すと、遙はじっと凛の瞳を見つめて、ふっとその目もとを赤く染めた。「だっておまえが、」
「幸せにしてくれるんだろ?」
***
凛はスキンシップ過多だ。昔から、遙はずっとそう思っている。体じゅう色んなところをベタベタ触りたがる。でも、本当はいやじゃなかった。いやだなんて一度も思ったことなかった。
「あれ、冗談に見せかけて、本気だったろ」
凛を見上げて荒い息を吐きながら、遙が笑った。言葉に詰まって、凛は目を逸らした。
「気付いてたのかよ……」
ずっと好きだった。小六の終わり、幼い心には抱え切れないくらい、激しい恋をしていた。いつだって溢れるほどの感情を、どうすることも出来ずに持て余していた。周りにも、遙自身にも、知られてしまったら終わりだと思いながら、それでも触れていたくて、少しでも近くに居たくて、からかうような言葉に想いを隠して触れ合った。邪険にされても嫌がられても、遙が自分のことで感情を動かすだけで嬉しかった。……今思えば相当、いかれていた。
(今もだけど)
「は、ン」
ゆるく揺すると、遙がぞくぞく身を震わせた。ああ、気持ちいいんだな、とわかることが嬉しかった。あの頃みたいな幼い触れ合いではなく、体の奥深いところまで入っていけることが。その存在を隙間もなく感じていられることが。
もういやだ、と目で訴えられて、わかってる、と答えた。……今夜は、もうお終い。
「嬉しかった、から」
目を伏せて、遙がぽつりと呟いた。触れた個所がまだじんじんと熱を持っている。
「嘘吐け、おもいっきり引っ叩いたくせに」
「おまえが冗談にしたからだろ……」
眠いのか、と問うと頷いたので、体重をかけないように慎重に体を退いた。出て行く瞬間は少し寂しい。包み込まれていた温もりが離れて行く。けれどすぐに首に腕が回されて、それが自分だけの想いではないことを知る。
腕を貸してやると素直に頭を乗せてきた。片手で抱き寄せると、さらさらした髪の感触が肌に心地いい。朝になれば痺れが切れているだろうことは承知の上だ。
(幸せにする、とか)
昔の自分の方が、よっぽど度胸があった。何も知らずに、何も恐れずに、ただ好きなことに一生懸命だった。誰より幸せに出来ると、本気で信じていた。
今はまだ不安だらけだ。いつか失うんじゃないかと、また手を離してしまうんじゃないかと、
――知らぬうちに横から掻っ攫われるんじゃないか、と
「頭の中、ぐるぐるしてるな」
気付けば、至近距離からじっと見詰めてくる青い瞳と目が合った。
「別に。……もう寝ろよ、お前んとこは朝練あんだろ」
額にキスされて、抱き寄せる腕に力がこもる。言いたいことを態度で隠してしまうやり方は、昔のままだ。馬鹿な凛。不安なことがあるなら、言えばいいのに。寂しがり屋のくせして。
「昔のおまえの方が素直だった」
「……、うるせーよ」
背中に腕を回すと、一瞬だけ凛の体が強張った。直後、枕にしていた腕を引き抜いて、両手で強く抱き締められた。凛の匂いがする。この匂いが好きだった。ずっと昔から。
「……ちゃんと幸せに、する」
馬鹿だな、と遙は思った。もう充分だとは言ってやらなかった。