自宅に続く通学路の途中に小さな神社がある。
古い鳥居はもともと白かったのが、雨風に晒されるうちに塗料が剥げて、そこが錆びてを繰り返し、見る影もなく黒ずんでいる。小さい頃はここで祭りがあって境内には出店もそこそこ出ていたが、今や誰も彼もがその存在すら忘れ、滅多に立ち入ることをしないので、辺りはすっかり荒れ果てている。
考え事をしたいという訳ではなかった。ただ、何か無性に走り出したい気分だった。空はどんよりと曇って、今にも雨が降り出しそうな様子だった。スポーツバッグを斜め掛けにして、影山はいつもなら通り過ぎる長い石階段を駆け上った。手入れをする人間も居ないらしく、石は苔むして、隙間から雑草が生えていた。
石段を上り切り、鳥居をくぐると、短い参道を一気に走り抜けた。寂れたお堂の前に出たところで、影山は不意に立ち止まるとバッと後ろを振り向いた。何かが後をつけてきたような気がしたのだ。ポツ、と頬に雨粒が落ちてきた。
「やべ」
ざあっと一気に降ってきた。辺りを見回しても雨宿りできるような場所はない。影山は仕方なく、崩れ落ちそうな濡れ縁の上によじ登った。どんどん強くなる雨に追い立てられるように、本殿の傍までにじり寄って進むと、壁に凭れてふうっと息を吐いた。
――疲れた。
後輩たちは打ち上げだ追い出し会だと騒いでいたけれど、好きにやればいい。自身の部室の荷物は今日で全部引き上げた。ああ、監督が進路について話をしたいと言っていたから、もう一度くらいは顔を出すことになるんだろうか。面倒くさい。疲れた。高校はバレー部が強ければどこだっていい。どこだっていいんだ。
疲れた……。
サアア、サアア。雨の音と匂いが辺りを包み込む。サアア、サアア。急速な眠気に襲われて、影山は体育座りのままカクンと頭を垂れた。雨は少しばかり弱くなって、なおも降り続ける。
ばさばさ、と鳥が羽ばたく音が耳に残った。鳩か、烏か。考えながら影山は眠りに落ちる。
***
チームメイトの一人が顧問に詰め寄るのを、視界の端で捉えている。
「正直、居ない方が助かる」
一年生がモップを抱えて体育館を走る。偉そうに命令する二年の声が響く。シューズと床が擦れる音がする。ネットを片付ける音、ボールのバウンド音、隣コートのバスケ部の声。そういうものに混じって聴こえてくる奴らの声は、別段隠そうともしていない所為なのか、やけによく耳に届いた。
「あいつには限界なんです。ついていけない」
そうかよ、と思う。足元にボールが転がってきた。「スイマセン影山先輩!」後輩が駆け寄って来た。屈んで拾い上げると、そのまま体育館の入り口に置いてあった籠に投げ入れる。ガコン!と大きな音がした。
「……すっげえ」
ぽかんと口を開けたまま一年が呟いた。どうでもいい。チームメイト達はまだ顧問を取り囲んでいる。早く終わらせろよ、と思う。時間の無駄だ。この分じゃいつまで経っても自主練習が出来ない。
どうせお前らだけじゃ勝てねーんだから。
亀裂は広がり、溝は深くなっていった。けれどやっぱりそんなことはどうでもよかった。試合中に声を掛けることもなくなった。ただ、格下相手の練習試合ですら一セット落とすことが増えた。影山は苛立った。空しく素通りしていくボールこそ不憫だった。俺が上げてやったのに。打てさえすれば楽に勝てるのに。
(俺が勝たせてやってんのに)
迎えた県予選の決勝で、彼の隣にチームメイトは居なくなった。
「影山、下がれ」
ベンチに座ってじっと床を見詰める。真横に引き結んだ唇が震えて仕方がなかった。膝に乗せた拳を握り締めて屈辱に耐えた。
(馬鹿じゃねーのか?)
ストレート負けのスコアボードを、戻って来たチームメイトの顔を、影山は一度も見なかった。彼の中学のバレーは終わった。ここで、ベンチの上で、終わったのだ。信じ難かった。整列の時に誰かが泣いていた。影山は思う――馬鹿じゃねーのか。
***
「こんなところで寝てると風邪ひくよ」
パチン、と目蓋を開いた。夢を見ていたような気がする。上半身を起こすと、辺りは真っ暗だった。いつの間にか雨は止んでいた。ずいぶん長いこと眠ってしまったらしい。今は何時だろうか?起き上がりかけた影山のすぐ傍で「もう帰るの?」という声がした。ぎょっとしてそちらに視線を向けると、隣に座っていた誰かがふふ、と笑ったのがわかった。
「ひな鳥みたいに口あけてたね」
「、誰だお前」
上擦った声が出た。それを聞いた「誰か」はまたくすくす笑い声をたてた。暗くてその姿はよくわからないが、同い年くらいの少年の声だった。
「そんなに驚かなくてもいいじゃない。起こしてあげたのに」
影山は必死に目を凝らして傍らの「誰か」を見ようとした。が、どういう訳かぼんやりとした輪郭しか認識できない。境内に明かりはひとつも無かった。尻ポケットからスマホを取り出してライトを付けると「やめて!」と叫び声が上がった。直後にずり、ずり、床を後ずさっていく音がする。
「んなこと言ったって……暗くて何も見えねえし」
「じゃあこれでいい?」
暗闇からにゅっと伸びてきたのは、少年の指先だった。手首から向こうは闇に紛れて見えない。短い爪は少しだけ尖っている。やけに細すぎるような気もしたが、ともあれ隣にいるのが生身の人間であるとわかって、影山は幾らか安堵した。
「こんなとこで何してんだ」
「おれが先に雨宿りしてたんだよ。声かける前におまえが寝ちゃったの」
気が付かなかった、とそこで影山は首を傾げた。雨が降り出す前、ここには誰も居なかったような……。
「おまえ、年いくつ?名前は?」
「……15。影山、飛雄」
とびお。飛雄かあ。「誰か」はやたら嬉しそうな声で繰り返した。飛雄。とびおかあ。
「お前は?」
影山がそう尋ねると一瞬、妙な間が空いた。思いがけない問いの答えに詰まったような。少しの沈黙の後、ええと、と慌てたような声がした。
「おれも、……15歳。名前は……」
その瞬間、雲が流れて月の光がわずかに暗闇を照らした。「誰か」はさっと指を引っ込めた。その一瞬、黒い羽のようなものが宙を舞ったような気がしたが、影山はすぐにそれを打ち消した。見間違いだ。「誰か」はごく小さな声で「また今度ね」と囁いた。
「あ?」
ブブ!とスマホが鳴った。母親からのメッセージが表示されている。
『遅くなるの?帰りは何時?』
時刻は20時を示していた。影山は慌ててバッグを引っ掴んで、本堂から飛び降りた。
「じゃあな」
暗闇に向かって声をかけると、あいかわらずぼんやりとしかわからない「誰か」が頷いたのがわかった。顔が見えないのに、おかしな話だが。
「またね、影山飛雄」
―—次は、鳥居の前で頭を下げること忘れないでね。
玄関を開けると、途端に嗅ぎ慣れた匂いが漂ってきた。母親の作るカレーの匂い。小さい頃からの一番の好物。いつもなら最大限に食欲をそそるはずのその香りは、けれど今日ばかりは彼に何の効果も与えはしなかった。さっさと風呂に入って何も考えずに泥のように眠りたい。影山は乱暴に靴を脱ぎ捨てて、鞄から取り出したユニフォームを洗濯機の中に突っ込んだ。三年の間、常に身に纏い、数えきれない涙と汗を吸い込んできた、もう二度と着ることのないであろうユニフォーム。それにすら、なんの感慨も湧きはしなかった。大股で階段を上る途中、リビングから母親が顔を出した。
「お帰り。ご飯もう食べられるわよ」
試合の結果を聞かないのは、別に今日が初めてというわけでもなかった。いつの間にか聞かれなくなっていた。中学に上がるまでは、喜び勇んで――または悔しさに泣きながら――逐一報告していた。一年の頃も、二年の間も。三年になってからはどうだったろうか。
「……あとで食うよ」
それだけ答えた息子に、母親は笑って「お疲れさま」と言って寄こした。彼は母親が、試合の後はいつも好物を用意して待っていることを知っていた。なんとなく、ほんの少しだけ、胸を締め付けられるような思いがした。
***
「神様のお使いなんだって」
昼間の教室で、後ろの席で女子たちが話しているのが聞こえてきた。
「ええ、それにしたって普通はハトとかでしょ。白いし」
「逆に縁起がいいのかもよ、最初っから真っ黒だと」
「カラスの神様とか、なんか不気味」
「勝手に壊すと祟られちゃうんじゃない?」
―—烏。
耳に引っかかった言葉で、影山の意識は浮上した。昼休み、部活を引退した今となっては体育館を使う理由もなく、かと言って受験勉強に費やすような熱心さもなく、そうなれば寝る以外の選択肢は存在しない。机に突っ伏してうとうと微睡んでいる最中、後ろから聞こえてきた会話の内容にはなんとなく覚えがあった。
登下校で必ず傍を通り過ぎる、近所の寂れた小さな神社。今よりずっと幼いころ、母親に手を引かれて夏祭りに行ったことを何となく覚えているが、そんなものはこの辺りに住んでいる者がだいたい持っている記憶だ。これまで特別に関心を持ったことはなかった。彼女たちによれば、この辺りの開発のために神社を取り壊す話が出ているものの、予算だとか住民の反対だとか責任者だとか地主だとか、あらゆる方向で揉めているらしい。
ふと、影山はあの夜のことを思い出した。あの日、なぜあの場所に立ち寄ってみようと思ったんだったか。少しばかり持て余した感情を、どこかに置いていきたかったのだ。いつもと違うことをしてみようと思った。影山の中であの夜の出来事は、寄り道の途中で見た、ぼんやりとした夢だと半ば片付けられていた。あそこで誰かに会ったような気がする。誰かと何かを話したような気がする。「誰か」の顔を思い出そうとすると、不思議なことに記憶に靄がかかるようだった。ただ、白くてほそい指先だけが脳裏に焼き付いている。
(またね、影山飛雄)
当たり前のように俺の名前を呼ぶ、お前は誰だ?
16時を過ぎた。夕焼け小焼けが流れ出し、風景がだんだん薄暗くぼやけ始めた頃、影山は苔むした階段を上り、薄汚れた鳥居の前に立っていた。迷わず潜ろうとして、しかしすぐに立ち止まる。誰かに注意されたような気がしたのだ。半歩下がって、ぺこりと軽く頭を下げた。
——誰に?
そのまま短い参道を進むと、腐り落ちそうな濡れ縁が目に入った。目を凝らしてその奥を見詰めると、お堂の屋根の影の先で、何かがスゥと隠れた。引っ込んだという感じにも見えた。影山は構わずずんずん進むと、勢いよくどしんと濡れ縁に腰を下ろした。
「オイ」
声をかける。返事はない。しかし「誰か」の気配はあった。影山は今度は確信を持って口を開いた。
「居るんだろ。バレてんだよ」
ずり、と床をいざる音がした。程なく、暗闇から応える者があった。
「いらっしゃい」
声の主は屋根の影ぎりぎりまで距離を取ったらしかった。黒い何かが動いているのがわかる。が、相変らず姿は見えない。影山は痺れを切らして「お前」と呼びかけた。
「何もったいぶってんだよ。顔を見せろ」
言ったあとで何かナンパみたいじゃねえかこれ、とも思ったが今さら撤回できなかった。「誰か」は離れた先で少し逡巡する気配を見せた。顔を見られたくないのか?とも思ったが、そんな理由も見当たらなかった。影山は無遠慮に「顔を見せろ。名を名乗れ」と重ねて呼びかけた。なんでこんなにも頑なに姿を見せないのか、彼はだいぶ不満だった。自分だけが素性を知られているのは不公平だろうという気がした。うぅん、と唸るような声を上げて、「誰か」は観念したようにずり、とこちらへにじり寄ってきた。
一瞬の出来事だった。さあっと風が吹いて、流れた雲の間からほんのわずかに晴れ間が差し込んだ。日の光が屋根を照らし、それはそのまま影山の居る場所をひと筋だけ照らした。同時に大きな目と、橙の髪の毛が、影山の視界に飛び込んできた。光はすぐに消えて、元の通りの薄闇が辺りを覆った。
「……日向」
さっきより幾らか高い声がした。気付けば影山の隣に、その少年は座っていた。
「おれは日向。お前と同じ15歳。よろしく、影山飛雄」
影山飛雄は非科学を信じない。それは言うなれば、宇宙人だとか、幽霊だとか、超常現象だとか、そういった類のものだ。基本的に彼はテレビを見ないし、仮に娯楽番組としての怪奇現象を見たとして、鼻で笑うタイプだった。彼は自分の目で認識したものしか存在を認めず、そもそも彼の(圧倒的にバレーボール中心の)生活において無関係なもの、余計なものはその視界に入ることすら皆無だった。だからこの晩、彼がなぜ「それ」を見たのかと言えば、ひとえに数年間、彼の心と体の全てを占めていたバレーボールという存在が、一瞬その肩から下りたというタイミングに他ならない。
その少年は自分を「日向」と名乗った。その背中には本来あるはずのないものが主張していた。
――羽だ。
黒い羽は「何か」の背中から生えているように見えた。真っ黒いワンピースのようなものを突き破って、それは小さな背中の上で存在を主張していた。頼りなく細かく震えるように揺れながら。よく見ればそれは片方の背中にしかなかった。片方だけじゃ飛べないだろうな、などと彼は考えた。なら飛べないこれは、少なくとも鳥じゃあないことは確かだ。背中から片方だけ羽の生えた、鳥でないものとはなんだろうか?
***
自分の家の、自分の部屋。生まれてから十五年の間、正確には小学校に上がった六歳の時から過ごしてきた、馴染み深い自室だ。中学に上がって急激に背が伸びたため買い換えたベッド、高さを調整し直した椅子と学習机、床に転がった5キロのダンベルと、積み重なって崩れる寸前の月バレの雑誌。それだけだ。たったそれだけの変わらぬ景色の中に、見覚えのないものが見えた。開け放たれた東側の窓の下、日向は寝転がっていた。橙色の髪の毛が夕日に照らされて、黒いワンピースの肩甲骨の部分から片方だけ生えた黒い羽が、呼吸と同時に上下に揺れている。
「、オイ」
橙の頭がゆるゆると左右に揺れて、眩しさに景山は目を細めた。日向はゆっくり起き上がると、図々しくもつぶやいた。
「お腹すいた……」
スプーンを口に運びながら、影山は自分の隣で裸足をぶらぶらさせながら頬杖をついている日向を横目で見た。
(フツーに隣に座ってやがる)
階下へ下りて来た時、母親は目線をこっちに寄こしたが、ただ一言「大盛りにする?」と尋ねただけだった。運ばれてきたカレー皿は一つだけで、どうやら見えていないらしいとわかった。そんな馬鹿なと思いつつ、別段驚きもしていない自分にも気付いていた。二回目のおかわりを待つ間、影山は自室でつい先ほど行われたやり取りを反芻した。
「おれ、神様の使いなんだよね」
羽の付け根を撫でながら、奴はさも当然のようにそう言った。
「頭いかれてんのか?」
日向はむっと頬を膨らませて、それからばさっと音をたてて、片方だけの羽を開いてみせた。
「これがダンボールで出来てるんじゃないってわかる?」
「そんなことよりお前、なんでずっと顔見せなかったんだよ」
日向は可笑しそうな、困ったような顔で肩をすくめた。
「この姿よりそっちのが気になるんだ。やっぱりお前、ヘンなヤツだね」
大きな瞳をぱちぱちと瞬かせながら、日向は笑った。十五歳にしては幼い笑顔に思えた。
「おっかながるかなーと思って。おれを見た子どもはたいてい逃げてしまうから」
影山は思わず眉を寄せた。
「誰が子どもだよ」
「そっち!?」
日向は今度こそ、ひっくり返って大笑いした。しばらくそうしていたが、やがて悪戯っ子のような表情を頬に浮かべた。
「これだけでいいのか?」
冷蔵庫から失敬したぐんぐん牛乳200mlを差し出すと、日向は勝手にストローを挿してぐいぐい飲んだ。カレーは美味しそうだけど食べられないと日向は言った。そんなもんか、と影山は納得した。可笑しな話ではあるが。日向の生態について、影山は特に思うこともなかった。ただ、口にできる物があって良かったと思った。これは小学校の頃から毎日必ず飲んでいるため、母親が箱でストックしている。多少減りが早くなったところで問題はないだろう。
「おいしい」
二杯目のカレーがすっかり空になった頃、奴は2パック目を開けていた。立ち上がって皿を流しに置くと、日向をどかして冷蔵庫を開ける。新しい1Lの牛乳パックを掴んで、バクッと口を開けると、シンクに伏せられていたコップを手に取って、縁までなみなみ注ぐ。そのまま一気に飲み干した。隣でその様子を目を細めて見ていた日向が、ふたたび大きく瞬きして、ふっとどこか大人びた笑みを浮かべた。
「おまえ、そのうちきっと壁みたいにでっかくなるね」
***
夏休みに入った。三年生は受験もあり、課題はある程度免除されている。特に男子バレー部はその殆どが青葉城西へ進学するため、過去の試験については先輩達から代々受け継がれ、対策は容易だ。よって受験生といえどもさほど必死になって勉強する必要はなかった。
訪れた市立図書館で問題集を広げながら、影山は先ほどから何度もあくびをしていた。時間は午前十一時を回ったところだ。腹は空かないが、そろそろ座りっぱなしで腰が痛い。何より数字と見つめ合うという慣れない作業の所為でたいへん眠い。早めの昼食を取りに行こうと筆記用具を雑に鞄に放り込むと、眠気覚ましに顔を洗おうと思い立ち、さっさと席を立った。
図書館には、受験生と思わしき生徒が何人か来ていた。みな一様に難しい顔をして問題集を解いている。同校の人間もいるのかもしれないが、何せ私服なのでわからない。あくびを噛み殺しながら男子トイレに入ったところで、影山はぴたりと足を止めた。
真正面に、同じく歩みを止めた元チームメイトの姿があった。
「影山?」
金田一は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに顎を上げてこちらを睨み付けると、いくらか馬鹿にしたような口ぶりで言った。
「王様がこんなとこに用なんてないだろ」
夏休み前には推薦の話が来ていた。練習中に監督に呼ばれ、少しだけ話をした向こうのコーチは、影山のプレーをおおいに称賛しながらも「けど君はもう少しチームプレーを大切にした方がいい」と言って寄越した。青葉城西には尊敬と軽蔑の入り混じる、複雑な感情を抱いている二つ上の先輩がいる。その名前を出した上で、「君たちが同じチームで戦えば、来年は間違いなく全国を狙える」とも。
「この前、及川さんが来てたぜ。お前の推薦の話聞いてスゲー嫌そうな顔してた」
影山はほんの数日前までチームメイトだった男を見た。1セット終了間際の、あの苦々しい記憶と共に。
「青城には行かねぇ」
再度、金田一は目を見開いた。まるきり信じられないものを見るような表情だった。
「……なんで、」
「『居ない方が助かる』んだろ」
影山は不遜な態度を崩さないまま、彼の脇を通り過ぎた。わずかに掠れた声が追いかけてきた。
「テメーなんかどこにでも行っちまえ!」
――言われなくともだ。
背中で走り去る足音が聞こえる。眠気はとうに消えていた。
朝と寸分違わず同じ位置に寝転がった日向が、部屋に入って来た影山に向かって手を振った。
「おかえり」
陽当たりのいい東側の窓の下を気に入ったらしく、すっかり此処が彼の定位置になっていた。広げた羽に半分守られるようにして丸くなっている日向の、少し距離を取った位置に景山は腰を下ろした。
奇妙な同居生活は続いていた。日向は朝も、昼も、夜も、影山の部屋に居た。外に出ようとはしなかったが、家の中では何処にもついて来た。目覚めるとたいてい真正面に彼の顔があった。顔を洗っているときは横から覗き込み、食事する時は必ず隣に陣取った。食べている姿を飽きもせずじっと見つめてくるのには辟易した。落ち付かねーから見るのやめろ、と何度言っても聞かなかった。何が面白いのか全くわからなかった。相変わらず、日向はぐんぐん牛乳だけは好んで飲んだ。目に見えて減りの早いストックに、ついに今朝方母親から「こんなにたくさん飲んで、あんたそのうちお腹壊すんじゃない?」と心配されてしまった。
「どこ行ってたの?」
「図書館」
そー、と大して興味もなさげに返事が返って来た。特に聞いてほしかった訳でもなかったが、なんとなく独り言のように口を開いた。
「引退した部活のチームメイトに会った」
「それって友達?」
尋ねられて、影山は首を傾げた。
「違う……と思う」
「ちがうんだ」
友達ではなかった。いや、そうだった時期もあったのかもしれない。少なくとも、一年の時は。二年の間も。三年になってからはどうだったろうか?
「引退した部活のチームメイトと、なに話したの?」
日向の大きな瞳に真正面から見詰められて、影山は思わず怯んだ。
――日向、こいつのまん丸い大きな目を見てると、吸い込まれるんじゃないかと思ってしまう。馬鹿なことだ。
「別に……進路の話。高校どこ行くとか」
「行かないとか?」
ぎくり、と影山の肩が大きく揺れた。
「部の奴らは大体みんな、同じ高校に行くんだよ。でも俺はそこには行かないから」
「そー」
それだけ言うと日向は目を閉じて、ぽつりと呟いた。
「さみしいね」
続