――もし、夜霧さまではありませぬか。
場末の宿で軽い食事を摂っている最中に、声と同時に袖を引かれた。数年前の仮の名を知る者など、今となっては殆ど居ない。どこぞの追手かかつての同業かと視線を投げるも、そこには妙齢の女がひとり佇んでいるだけだった。
「覚えていらっしゃいませんか。八部の遊里におりました夕凪でございます」
ああ、とすぐに思い至った。雇い主の敵将を暗殺する際、出入りする花里に客として入り込んだ。その時に相手をした遊女だ。やけに鼻の利く女で、お前さん火薬の匂いがするねと言い当てていた。面倒ごとになりそうなら始末しても良かったが、それ以上はお喋りもせず、嗅ぎ回るような素振りも見せず、ただ客を愉しませる役目に徹していた。同じような機会は何度かあったが、余計な口を利かなかったのはこの女だけであったのでよく覚えている。初心なふりが上手な、可愛い女だった。
「今はこの宿で飯炊きなどしております。またこうしてお会いできるなんて、嬉しゅうございます」
感極まったという様子で、女は白い指先を胸元に伸ばした。色ごとに慣れた指だった。
「相も変わらずいい男ぶり……後にも先にも、あんな素晴らしい夜はございませんでした。どうか今ひとたび、お情けをいただきとうございます。夜霧さま……」
しかし届く前にそれは押し止められた。およそ体温の感じられない冷たい手だった。
「私はただの行商の薬屋だ。誰ぞと間違えてはおらぬか」
男の返しに女は目を見開いて、それから小さく薬屋、と得心がいったように呟いた。
「……失礼いたしました。よく似たお人を知っておりましたもので」
そこでふと、女は視線を騒がしい店内へ向けた。若い女がこちらを凝視していることに気付いたからだ。まだ少女のようにも見えるが、小股の切れ上がったあやしい魅力のある女だった。男が低い声で「きり子」と呼んだので、この人の連れかと思い至った。若い女は店主に軽く頭を下げて、早足でこちらにやってきた。
「どうだった」
「明日の朝餉も付けてくれるって」
そうか、と頷いた男の傍らに、若い女は体を預けて座った。甘えたようにしなだれ掛かるその態度におや、と片眉が上がる。
「もう少しまけて貰おうと思ったんですけど、二食付きなら格安ですものね。路銀はなるべく節約したいですから」
「ああ、そうだな」
「……部屋はひとつですよ。夫婦ですもの」
うふふ、と若い女は艶然とほほ笑んだ。しかしその目は笑うことなくじっとこちらを見据えていた。わかりやすい牽制に夕凪は薄ら笑いを浮かべる。
「お邪魔をいたしました」
深く頭を下げると、すぐに酒宴の席から声がかかった。はいただ今、と返して、何事もなかったかのようにくるりと踵を返した。
――あのひと、妻帯なさったの。ずいぶんとお若い……あんまり若すぎる奥様だこと。薬屋とおっしゃった。夫婦者の薬売りであれば、何事もさぞかしやり易いことでしょうよ。夜霧さま……いいえ、今は一体なんと名乗っていらっしゃるのやら――
「何を考えてるんだい、夕凪」
馴染みの客が怪訝そうな顔をして尋ねた。女は肉感的な体を摺り寄せて、男の耳元でふうっと吐息を零した。
「旦那、今夜は泊まっていっておくれよね……」
***
交代で湯浴みを済ませて戻って来ると、一番弟子は二つ並べて敷かれた布団の上で静かに座っていた。洗い髪はまだしっとり濡れており、糊の効いた浴衣は少し大きく指先まで袖が余っている。襖を閉めて近付いても、俯いたままこちらを見ようともしなかった。機嫌が悪いことには気付いていたが、ここまでわかりやすいと少々呆れる。しかし表では毅然とした態度を取っていた分、二人きりになった途端に見せる素直さをいとおしくも思う。天鬼は幾分やわらかい声音で「どうした」と問いかけると、隣に腰を下ろした。
「さっきの人、どなたですか」
ごく小さな声がそう尋ねた。天鬼はわずかに眉を寄せる。
「……ただの昔の見知りだが」
途端にガバッ!ときり丸は顔を上げた。吊り上がった目に薄っすら涙が溜まっているのが見て取れた。
「ただの知り合いが、あんなふうにしなを作るのですか。本当は深いご関係だったのでしょう。先生はああいう人がお好みなんですか?だったらぼくみたいな、こんな貧相な子どもの体じゃなくてもっと――おうとつのある――ああいう体つきの女の人に、妻役をしていただいた方が良いのではないですか?」
無遠慮に捲くし立てて、そこできり丸はハッと口をつぐんだ。自分を見据える冷たい目線に気が付いたからだ。うんざりさせてしまった、と途端に激しい後悔に襲われる。この人に軽蔑されることだけは耐えられない。「……あの、先生」
「あれは八部の遊里で遊女をしていた女だ。名は夕凪という。八方斎様に拾われる前、仕えていた主の命で客として潜伏した際に相手をした。領内の遊女を何度か宛がわれたこともあるが、それと比べてもよく教育された、手練手管に長けた女だった。言われてみれば確かに男の情欲をそそる体つきをしていたな。十四の頃から客を取っていたと聞いたが、その割に初心なところがあった。房中の術は言うまでもなく、具合がいいので孕ませないように注意して――」
ぐい、と両手のひらが口元に押し付けられて、天鬼は押し黙った。
「やめて……」
きり丸は消え入りそうな声を出した。目尻から頬を伝ってぽたりと床に水滴が落ちる。天鬼は小さくため息を吐いた。
「聞かれたことを答えたまでだが」
「いやです、イヤ、聞きたくない」
軽く肩を押すと簡単に寝床に倒れ込んだ。真上から覗き込むと、目と鼻が真っ赤に染まっていた。
「余計な詮索をしないことが暗黙の掟であったはずだな」
「、ごめんなさい」
「私が任務で女を抱いたことが気に入らないのか?」
浴衣の帯をしゅるりと引き抜く。合わせが解けて眩しいほど白い肌が露わになった。
「先生のお仕事は理解してます。でも、いやです。先生が女の人に、ぼく以外の誰かにこんなこと……」
首筋に強く口付けると「あ、」と声を上げて仰け反った。喉を晒されることで支配欲を刺激されるのだと知ったのはいつだったか。
「妻役にお前を指名したのは私だ。今さら嫌になったとて変えられるものでもない」
即座に、きり丸は否定するように激しく頭を振った。
「違います!嫌になってなんか」
言葉を遮るように唇を塞ぐ。ん、と大人しく受け入れて、自分から舌を差し出してくる従順さがあざとくもいじらしい。舌を喰んでじゅるっと音を立てて唾液を吸ってやると、頬を真っ赤ににして「んん」とむずがった。さんざん口を吸い合ってから粘ついた糸を引く唇を離して、そのまま淡い色の薄い胸にじゅうと吸い付く。べとべとに濡れた乳首をちろちろ舌先で転がすと、気持ちいいのかふぅんと鼻を鳴らしてかたく尖らせた。何も覆われるもののない下腹部が、健気に震えて愛撫されるのを待っている。膨らみかけた蕾を無理やり押し開くように、お前が可愛いのだと夜毎に何度も教えた筈だった。
「詮無いことを考えるな。務めを果たせ」
「、せん……、おまえさま……」
最初にこの子の体を暴いてから、一から念入りに仕込んだ。初めはさんざん泣いたが、乾いた土に水が染み込むように貪欲によく覚え、よく求めるようになった。共寝する夜が増え、こちらが泡を食うほど淫奔的に乱れることも度々ある。見目の麗しさに加えて、もはや生まれ持った才というしかないが、少々気掛かりでもある。今でこうなら果たして独り立ちする頃にはどんなに――
びきびきと筋が浮き出たものを陰部に押し付けると、その熱量にきり丸は思わず「ぁ、すごい……」とつぶやいた。ごくりと唾を飲み込む音が響く。何度見ても慣れない。何度だって見とれてしまう。かたくて太い、大きくて熱い、大好きな人のもの。早く、はやく。夜毎の情交ですっかり熟れた窄まりが期待でひくひく収縮を始めている。待ち侘びて切なくひくついているその場所に、暴力的なまでに膨れ上がった熱塊が勢いよく突き込まれた。
「ッ~~~!」
限界まで脚を開き、指先を痙攣させて、きり丸は声も出せず悶えた。太いものが狭い壁を掻き分けてずぶずぶ押し入ってくる。敏感なところに擦れるたび、背中が弓なりにしなる。容赦なくみちみち押し込まれる感覚――ああ、そんな、いちばん奥まで。いちばん深いところまで、入るの。先生。
「っあっだめ、」
どちゅん!と最奥に突き当たると、電流のような快感が脳天を突き抜けた。
「あぅっ……!」
未だ快感の逃がし方もわからず、ただ全身をびくびくと震わせて極致感を味わうしかなかった。殊更ゆっくりと腰を引かれ、やおら前後に動かし始めるのをなす術もなくただ受け入れる。
「……どうした、きり子。やけに具合がいいな」
「あ……っあっ、……ぁ、おまえさま……」
もやがかかったような頭で、きり丸はまたぼんやり『詮無いこと』を考える。先生はこれまで幾人の女の人を抱いたのですか?いちばん最初の人はどんなふうに先生を悦ばせたのですか?ぼくにはわかりません。でも、ぼくのこんなぺたんこの体なんかきっと比べ物にならない。その人たちは皆、柔らかくてふかふかしていて白粉の甘い匂いがするのでしょう。ぼくのかたいだけの体より、何も生まない空っぽの体なんかより、その人たちはずっとずっと心地がよかったのでしょう。あなた、……先生。『きり子』はあなたの仮初めの妻だけど、それだけじゃ満たされない。ぼくは女になりたいわけじゃない。けど、もうずっと、ずっと。あなたの子を孕める体がほしいと、そればかりを願っているのです。
ふと言いようもない敵愾心が沸いた。馬鹿げていると知りながら、それでも言わずにはいられなかった。
「……天鬼さま」
こちらを見下ろす男とまともに目が合った。八方斎からもらったというこの名前を、この人が後生大事にしていることを知っている。けれど、それが所詮は仮の名にすぎないということも、この人はわかっているのだ。
「ぼく、天鬼さまに教えていただいたこと……大人の男の人を悦ばせる術も、今じゃ上手に出来るようになったでしょう。この体とこの術で、誰のこともきっと骨抜きにできます。だからぼく、いちど試してみたいんです……天鬼さま以外の男のひ――」
瞬間、首を掴まれた。ぎり、と少しの加減もなく締め上げられて息が詰まる。あと少し指先に力を込められたら死んでしまう。
「……もう一度同じことを口にしたら殺す」
腹の底から響くような声だった。ぞっとするほど冷たい、燃えるような赤い目がきり丸を射抜いた。
**
叫びすぎて声が枯れても、律動は止まなかった。前後に揺すられ続けて、床に付いた膝が赤く擦れた。何度も中に出されたものが、後ろからとろとろ零れる感触にはいつまで経っても慣れない。どうしても排泄を思い出して、羞恥でまた涙が出た。思いとは裏腹に、中は凝りもせずきゅうきゅう男を締め付ける。浅ましさにきり丸は声を上げて泣いた。
「もぅ、も……、許して、ゆるして」
懇願も空しく突き上げられて、「あぁっ」と掠れた声が出た。奥の壁が破れてしまう。もうほとんど感覚がなかった。ただ腰を高く突き出して、されるがままになっている。
「……こんな子どもの体、と言ったか」
ぐぼ、ぐぽっと耳を塞ぎたくなるような淫靡な音がする。引き抜くたびに恥部が捲れて、時折り中の薄い紅色がちらちら覗いている。
「どう思おうとお前の勝手だが」
びゅっ、と幾らか薄くなった精を放った途端、中が搾り取る動きを見せた。天鬼は思わず口角が上がるのを止められない――これが子どもの体とは笑わせる。こんな子どもがいてたまるか。きり丸、お前は何にもわかっちゃいないのだ。お前がどれだけ私を狂わせているか。こうして気が触れたかのように何度も何度もお前の中に吐き出せば、いつかお前に胤を宿すことができるのではないかと、そんな馬鹿げたことを四六時中本気で考えているのだということも。
「お前の体はお前のものではない。……私のものだ」
薄れゆく意識の中で、きり丸は思う。この人には他にも幾つも名前がある。そのどれにも愛着が持てず捨てたと仰った。本当の名前なんて知らない、そんなものがあるのかすら。けれど自分が出逢った時、この人の名はただ一つしかなかったのだ。だからぼくはその唯一の名前を呼ぶのです。嘘でも。そこに意味がなくても。ぼくはあなたのものだけど、あなただってぼくのものです。何も知らなかったぼくに、この世のことわりの全てを教えてくれた最初のひと。ぼくだけの先生。ぼくだけの、
「天鬼さま……。好き、すきです。お慕いしてます、天鬼さま……」
***
「おや奥様」
店先に立っていた夕凪は、その人を見かけて思わず声を掛けた。出立の時間はとうに過ぎていたからだ。
「ずいぶん遅いご出発ですこと」
にっこり笑って、女は年若い新妻を眺めた。少女のような見目だ――尤も、真実に見た目通りかどうかは別として。先程から足取りが覚束ない様子である。足腰に力が入っていないのだ。太腿を何度も内に擦り付けているその仕草は、明らかに男に抱かれた後朝の女のものであった。
「……、寝過ごしてしまって」
頬を赤く染めて、新妻は蚊の鳴くような声でつぶやいた。おやまあ、可愛らしいこと。生娘でもあるまいに。しかしそんなことはおくびにも出さず、そうでございますか、と頷いた。
「ご亭主は奥様をたいそうお可愛がりのご様子」
暗に昨夜の声がこちらに筒抜けだったということだ。薄い壁一枚隔てて、明け方まで泣きながら善がる声を客ともども聞かされた。客はやたら興奮して年甲斐もなく元気になるし、おかげでこちらこそ寝不足だ。新妻は一瞬その大きな目を見開いて、それから艶笑いを浮かべた。つい今し方までの恥じらいは何処へやら、ぎょっとするような色香と、明確な敵意の含まれた笑みであった。
離れた場所から「きり子」と呼ぶ声がした。視線を向けると、先ほどまで店主と話をしていた薬屋がこちらへやって来るのが見えた。
「おまえさま」
新妻はパッと顔を上げると、やはり幾らか心もとない足つきで夫の傍へ走り寄り、耳元でひそひそと何事か囁いた。心持ち屈んで目線を合わせていた夫はそれに軽く頷くと、口数少なく何事かを吹き込む。途端に耳まで真っ赤に染めて、新妻は口をぱくぱく開閉させた。
「先に行っていなさい」
新妻はまず夫を見、次に此方を見た。そうして真っ直ぐ夕凪を見詰めて、「お世話になりました」と深く頭を下げた。先だっての敵意は綺麗さっぱり消えていた。
妻の後ろ姿を暫く見遣ってから、薬屋は夕凪に近付いた。奇妙なことに、少しも足音がしないのだった。いつかも、褥のかたわらでただの一時さえ眠ることのなかったこの人のことを思い出した。
「世話になった」
すぐ隣の部屋に自分と客が居たこと、客の男が耳をそばだてていたことなど当然気付いていたであろうに。夕凪は苦笑しつつ「いいえ」とだけ答えた。
「お幸せそうでようございました。……人は好いたお方と添うが一番」
にこりともせず、薬屋は目礼すると踵を返した。夕凪は思いを巡らせる――きっと長生きはしない人であろうと思っていたのだ。こうして生きて再び会えたことが奇跡に近い。今度こそ、二度と会うことはないだろう。ならばこのくらいは良いだろうか。一度だけなら。他愛ない悪々戯としてなら。
「どうかお元気で……『天鬼さま』」
男は振り返らなかった。聞こえなかったことにしてくれたのだとすぐに思い至った。
先を歩く妻がふと振り返って匂やかに笑いかける。それに何かしら応えたようにも見えたが、男の顔を見ることは二度となかった。
終