*天の足り夜、とことわの夢

まあねえ、でも良いことばっかじゃないわよねえ。空になった丼を盆の上に重ねながら、うどん屋の女将は大儀そうにつぶやいた。
「よく言うよ。ここんとこ懐があったかいくせにさあ」
嫌味たらしくそう返したのは、店の常連の男だった。いつもは閑古鳥の鳴いている狭い店内がここのところ連日埋まっている。今の客には代金を貰う際に「商売繁盛で羨ましいこって」とやっかまれていた。同業者だろうか?農作業がひと段落して、昼飯どきを過ぎた九つ半。たまたま前後に並んでいた女から「二人掛けの席なら空いてるみたいですから、よろしかったらご一緒しませんかぁ?」と相席を持ちかけられた。なんだゆっくり食いたかったのに落ち着かねえなあと思いながら目の前に座った女をチラと見ると、ずいぶんと若くて器量良しだったので「いやこいつは得したかな」などと現金にも思い直したところだった。
「目に見えて客が増えてるじゃねえか。ご時世様さまってやつだろ」
「そうなんですかぁ?それってやっぱりこのお店のおうどんが美味しいから?」
若い女は舌っ足らずな口調でとんちんかんなことを言うと「お出汁は何を使ってるんでしょうねぇ」と小首を傾げた。
違う違う、と男は顔の前で手を振りながら笑った。――可愛いなあ。トウが立ったウチのかかあとは大違いだ。
「お嬢ちゃん、なんにも知らないんだな。単に戦が近くて、他所からの人間が増えてるってことだよ」
「いくさ?この辺りで戦が始まるんですかぁ?」
こわぁい、と肩をすくめる仕草をやに下がった顔つきで眺めていると、隣に座っていた二人連れの女が「そうそう、うちの旦那もさあ」と思い出したように会話に入って来た。

「刈入れが始まる前に雑兵で雇いたいって声かけられてさ」
「ウチにも来たよ。米だの味噌だの、買い溜めしとかなきゃ」
「やだよね、何でもかんでもあっという間に値が上がっていくんだもん」
「いくさってぇ、ここのお殿様とお隣の……ええと、何ていうお城でしたっけぇ?」
「ベニテングタケ城だよ。昔から城主同士の仲が険悪でねえ」
「なんだっけ、十年くらい昔、ツキヨタケ城のお姫様を取り合ったんだっけ」
「そうそう。結局、横からタソガレドキの城主が搔っ攫って行ったのよねえ」
「でもぉ、ドクツルタケ城とベニテングタケ城はぁ、少し前に和平協定を結んだって聞いたんですけどぉ」
「それがさあ、亭主が言うにはどうも、ベニテングタケ側が土壇場になって撤回してきたんだってさ」
「すっかり安心して物や人を流通させてたもんだから、ずいぶん敵さんが入り込んでるって噂よ」
「えぇ~っ、じゃあこのお店にもスパイが隠れてたりしてぇ~」
「「ないない、こんな小っちゃいうどん屋!」」

きゃはは、と大きな声で笑う女どもに辟易しながら、男は少し冷めたうどんを啜った。先月までは馴染みのあるかつお出汁だったのが、先週はいりこ出汁に変わって、今日は昆布出汁になっている。仕入れがうまく回っていないらしい。近所の金物屋でさえ、このところ大量の商品を安く買い叩こうとしてくる輩がいると零していた。あれは戦用の甲冑やら鉄砲やらに使うんだろう、とみな薄々勘付いている。いよいよもって戦が始まるのだ。どこでだれが何を聞いているかわかったもんじゃない。こんな村外れのしょぼい店とは言え、あんまり大声でお喋りが過ぎるってのも、よろしくないのではないか?

「あぁ、美味しかったぁ。ご馳走さまでしたぁ」

ぱちんと箸を置いて、女は顔の前で丁寧に両手を合わせた。見た目の幼さに反して、きちんと躾を受けたとわかる仕草だった。丼はきれいに空になっていた。
「女将さぁん、これおうどん代!」
「はいよ。いつもありがとうね」
女将は代金を受け取ると、女に向かって小さく「ご苦労さん」と声を掛けた。

「お兄さん、またねぇ」
ひらひら手を振って、女は店を出て行った。揺れる長い黒髪が遠ざかっていくのを惚うっと見送って「しまった名前くらい聞いときゃよかった」と惜しんだところで、男は「あれ?」と思い至った。
「女将、いつもって?あの子よく来るの?」
おれしょっちゅう食いに来てるのに、と不思議がる男を余所に、女将はさっさと丼を片しながら「たまにさ」と答えた。
「この村に来たらついでに寄ってくれるんだよ。あの子の旦那が薬の行商人だから」
男は目を剥いて叫んだ。
「だ、旦那ぁ!?ウッソだろ、あの若さで人妻だってぇ!?」
騒ぐ男を打ち捨てて、女将は厨房に戻ると先ほどから握りしめていた手を開いた。そこにあったのは質の良い明銭だった。どこもかしこもびた銭しか出回らなくなったこのご時世に。
「……知らない方がいいこともあるのさ。人の素性なんて」
誰に話すでもなく、そう独り言ちた。

***

「あれえ、薬屋の奥さん、久方ぶりだなあ」
田んぼのあぜ道に差し掛かったとき、農作業をしていた老夫婦が声をかけてきた。
「今回はまたえらく長かったねえ」
女は立ち止まると数秒間、二人の顔をじっと見詰めた。それからにっこり笑って「そうなのよぉ」と返した。
「出先でよく薬が売れてねぇ。うちの人、向こうで調合したりしてたもんだから」
「そりゃあ何よりだ。先生の薬はよく効くからなあ」

――そう、あの人の腕は確かなのだ。

「このあいだ、畑仕事中に腰をやっちまってなあ。塗り薬が欲しいんだよ」
「わたしは夜中にカラ咳が出てねえ。前にもらった煎じ薬、また貰えるかね」
「二軒隣のばあさんも先生のお帰りを今か、今かって待ちかねとるんだわ」
「嫁の産後の肥立ちが悪いってねえ……ああ、ほら、おいでになったよ」

老女が後ろを指した。女はゆっくり振り返る。約束の時間ぴったりだった。二刻半先に来て、八ツに、この場所で。


「……きり子」


白い装束に身を包み、箱笈を担いだ背の高い男がそこに立っていた。手招きするでもなく、呼び付けるでもなく、ただ静かに佇むその姿を見止めただけで、女は偽りの笑みを捨てて駆け出した。
「せん……、おまえさま!」
おかえりなさい、と胸に飛び込んだ後で、感情任せに動いてしまったことに気付いて慌てて離れようとしたが、しかしすぐに大きな手のひらが背中に沿わされた。それで、ああ、こうしていいんだったと思い直して、きり丸は今度こそ広い胸に縋り付いた。合わせからほのかに火薬の匂いがした。
「先生、ようお帰りになんなさった。みんな待ちかねとったですよ」
あとで米と野菜を持ってご挨拶に伺いますで、と声をかけた老夫婦に軽く頭を下げて、男はきり丸の腰に腕を回して踵を返した。

「……それで」
どこまでも続くように思える田舎道を並んで歩きながら、前を向いたままで天鬼が口を開いた。
「近々戦が始まります。いつものうどん屋、裏手にしいたけやかんぴょう、干し大根なんかが無造作に置いてありました。仕入れが不安定みたいです。女将はそろそろ気付いたかもしれませんね。ここに来る間に忍が変装した村人を何人か見かけました。内通者が多数入り込んでるのは間違いありません」
そうか、とだけ返して、天鬼は再び口を閉ざした。変わらず手は腰に回されたまま、傍から見ればいかにも仲睦まじい夫婦者に見えることだろう。歩いている途中で「薬屋さん」「先生」と親しげに声をかけてくる村人には、きり丸が代わって返事をする。そのうちの幾人かは変装した忍びのようだった。さっきの老夫婦、あれは本物。でも後ですり替わるかもしれない。うちに訪ねてくる人、持参してくるものや食料、すべて慎重に見極めなくては……。


**


薬屋に扮してドクツルタケの領地に入り込みその内情を探れ、という命が下ったのは半年ほど前のことだ。
「身分を偽るに独り身では怪しまれよう。薬売りの夫婦者として潜り込むがよい」
選りすぐりのくノ一を妻役に宛てがおうという首領の提言を、天鬼はにべもなく断った。
「お気遣いは不要です、八方斎様」
「しかし、天鬼よ。お前は頭は切れるがどうも性格が冷ややか過ぎて、村人から信頼を得るにはちと不安というか」
「百も承知。……きり丸を同行させます」
八方斎は目を丸くした。
「きり丸?あんな子どもにそのような役目が務まるとは到底思えんが」
数年前、廃寺から連れ帰ったという汚れた猫のような子どもを引き取りたいと申し出た時も、俄かには信じられなかった。その子どもを弟子とした時も。それが今度はその子を重要な任務に帯同させるという。しかも己の妻役に――いやいや。
「あれは私が一から仕込んでおります。御心配には及びませぬ」
翌日、半信半疑の首領の前に天鬼が連れてきたのは、若く美しい女の姿に変装したきり丸だった。ひとめ見て、八方斎もその部下たちも思わず「おぉ~」と感嘆の声を上げた。
「あんなちんちくりんの子どもが、よくここまで化けたもんだのお」
天鬼の隣で手をついて深く頭を垂れていたきり丸が、バッと勢いよく顔を上げた。薄く紅を引いた唇が艶やかに光った。
「だぁれがちんちくりんだ、この冷えた青梗菜!間違えた、饐えた発泡酒!」
しっくりこなかったきり丸は、冷めた青椒肉絲?と首を傾げながらさらに続けた。八方斎の額にぴくぴく青筋が浮かぶ。「おのれ調子に乗りおって、この不届き者!」

「……きり丸」
天鬼が静かな声で諫めた。それで、きり丸は大人しく再び頭を下げたのだった。


**


「領主サマはなんて仰ってるんです?」
囲炉裏でちいさな鍋を掻き回しながら、きり丸が言った。村の隅にある古い空き家に手を入れて、ここでの仮の住まいとして使っている。暫く訪れていなかったせいで薄く積もった埃を掃除して、水を汲んで薪をくべた。老夫婦が届けてくれた米と味噌と大根葉でささやかな夕餉を準備する。薬を受け取った二人は「先生」に向かって何度も頭を下げていた。庭先まで二人を見送っていると、後ろから「養生するように」と低い声がしたので、きり丸は思わず苦笑した。――人付き合い、得意じゃないくせに。
「ドクタケにも戦の一報はあった。兵糧と鉄砲の数を知りたい。引き続き探れと」
「そうですか」
ふん、ときり丸は鼻を鳴らした。天鬼がちらりと目線を向ける。機嫌が悪い時のきり丸の癖だった。

――ドクタケ領主、稗田八方斎。あいつのことは昔からどうしたって好きになれない。当たり前だ、あんなやつ。先生だって、あいつの言うことがてんで嘘八百だってもうわかってるんだ。抜け忍として追われていた時、崖から落ちたところを助けられたとか、居場所を与えて貰ったとか、返しきれない恩があるとか、それはそうなんだろうけど、そうなんだろうけど!でも、どんな無茶な命令も聞いて、どんな危ない任務もこなして、命の危険を何度も侵して、もう十分じゃないか。先生はいつ自由になれるの。いつか感情的になってそう問いただしたことがある。先生は眉ひとつ動かすことなく、静かに「恩義というものはそんなに軽いものじゃない」と仰った。
きり丸にはどうしても納得がいかない。

「はい、熱いですから気を付けてくださいね」
椀を差し出す時、袖を押さえること。かかとを立てて、お尻を乗せてから立ち上がること。座る時、裾の乱れを整えること。しなを作ってほほ笑むより、きちんと作法を守ることの方がよっぽど大事だと、変装の術を学ぶ際に先生に教わった。

「美味いな……」

ぼそりと呟いた声を、聞き逃すはずがなかった。つい今しがたまで渦巻いていた不平不満はどこかへ消えて、嬉しさで顔がほころぶ。自然に口角が上がるのを止められなかった。先生に食事を作るのは久しぶりだ。軍司として籍を置く「天鬼」は常に忍務を抱えて多忙であるため、ゆっくり膝を突き合わせて食事ができる時間はとても貴重だ。大好きな人に自分が作った味噌汁を誉められて、きり丸は天にも昇る心地だった。ここでは周りから夫婦者として扱ってもらえる。ここに居る間は先生と弟子という関係から抜け出して、仮初めではあるけれど、自分はれっきとした「妻」として存在しているのだ。きり丸はそれが、本当は何より嬉しい。
「先生、お代わりは……」
言葉とほぼ同時に、天鬼は炭に灰をかけて火を消した。あれ、と思う間もなくスッと立ち上がり、囲炉裏の反対側に座っていたきり丸の着物の袖を引いて立たせると、腰を屈めて耳元で囁いた。
「おいで……きり子」
背筋がぞくりと粟立つような感覚と、この後起こることへの予感と、仮初めの名が誰かを欺く時にしか呼ばれないことの意味を理解して、きり丸は目を閉じた。ふうっと大きく息を吐いて、再びゆっくりと開かれたその目は濡れた色を帯びていた。
「はい、おまえさま」

**

間者は天井に潜んでいるらしい。広い肩越しに小梁の一部が小さくきらりと光ったのを目の端で捉えて、きり丸は確信した。ひとり、ふたり。どちらも刀を構えている。少しでもおかしなことがあれば裏板を突き破って襲ってくる算段だろう。余所者が勝手に住み着いて商売を始めたらしい、今のところ不審な様子はないが身分を偽っている可能性は捨てきれない、今夜一晩監視して怪しい点がないか見極めよう、といったところだろうか。
「あっあっ」
ひときわ大きな声を出す。もちろん意図的に聞かせるためだ。喉を思い切りのけ反らせて身悶える。若い身体を持て余した妻が、久しぶりの夫との情交に我を忘れて夢中になっている。上から覗いている輩には、そんなふうに見えるはずだ。
「あぁ、いい、いいっ」
視界が揺れる。真上から覆い被さる夫の首に齧り付いて、『きり子』はひたすら声を上げた。限界まで開いた足の指先がぴんと張っている。中に入っているものをきゅうと締め付けると、ぐ、ぐっと質量が増した。
――ああ、大きくなった……。おれの中、気持ちいいですか、先生。
古い床の上に着物を敷いただけの粗末な寝床は、前後に揺すられるたび背中が痛んだ。がくがく頭を揺らしながら思わず眉をしかめると、摩擦から庇うように片腕が差し込まれた。
「だ、大丈夫です」
慌てて小声でそう伝えると、耳元で天鬼が「そのまま」と囁いた。途端にぞくぞくと全身に震えが走った。きり丸はこの人の声がいつだって大好きだが、情交の合間に漏らす吐息のような声音も一層好きだった。
「ああ、好き、すき、おまえさま……」
この人が好き。だいすき。この人はわたしの夫。――いや違う、おれは先生の弟子で、これは怪しまれずに忍務を遂行するための策。敵を欺くための虚言と謀略。気持ちいいなんて嘘。もっと愛して欲しいなんて思ってない。そんな罪深いこと考えたことない。でも先生、先生はどうして忍務ではない夜にもおれを抱くのですか?
「ぁ、あ――駄目、だめ、気持ちい、あっあっ、あっ」
嘘と誠がない交ぜになって、夢と現の境があいまいになって、ただ口から喜悦の声が零れ出るのを止められなかった。奥の一点を突かれると、突き抜けるような快感が襲ってきた。ろくに動かない頭を振る。ろれつの回らなくなってきた舌をどうにかしたくて糸を引いた口をかぱりと縦に開くと、不意にくちづけが降りてきた。
「ぁむ、」
「……顔を伏せなさい。そこまで見せてやらなくても良い」
濡れた唇を重ねたまま、天鬼はそう呟いた。きり丸は目を見開く。言われたことの意味を理解した途端、一気に血が上って頬がかあっと熱くなるのを感じた。
――先生、おれの顔、気持ちよくなってる時のだらしないおれの顔、見られるの嫌なの?どうして?そんなの、そんなの……。
「んっん、うぅん、んむ」
夫の肩口に顔を埋めて、『きり子』はとっくに己の許容を超えた快楽を逃がすことも出来ず、蜜のようにどろどろと身を焦がした。無言で腰を前後させる男が、本来見せつけるはずの白い肌を己の体ですっぽり覆い隠していることにも気付けなかった。女の淫らな喘ぎ声と、ぎし、ぎし、床が軋む音だけが響いていた部屋に、男の荒い息遣いがわずかに混じった。動きが速さを増し、ことが終わりを迎えようとした刹那、天鬼はきり丸の耳に口を付けて、ごく短く「中に」と吹き込んだ。きり丸は殆ど気を遣りながら、こくこくと頷いた。

「……、きてぇ……」

熱く激しい飛沫が身体の奥に叩き付けられるのを感じて、きり丸はうっとりと目を閉じた。自分の中が精を取り込むように厭らしく蠢いているのが少しだけ恥ずかしかったが、教わった情交の後のたしなみとして、男の腰に足を絡めてしな垂れかかるように甘えてみせた。やがてまだ幾らか硬さを保ったものが名残惜し気に引き抜かれた時、どろりと零れたそれがもはや何の意味もなく、ただ時がくれば排泄されるだけの空しいものだということも忘れて、心の底から幸せそうにほほ笑んだ。
「うれしい。うれしい……」

天井裏の気配はいつしか跡形もなく消えていた。きり丸の汗ばんだ頬をひと撫でしてから、天鬼は枕元から紐を取り出して懐に仕舞った。殺気を完璧に消しながらも、背後から襲ってくるならこれで縊り殺すつもりだった。問題なしと敵は大いに納得しただろうが、少々いい思いをさせ過ぎたような気もする。この子の甘い声がしばらく耳について離れないことだろう。満ち足りた顔で眠るきり丸の、ほそい首筋に残る情の痕を見詰めて、天鬼は先ほどまでの閨事を思い起こした。教えたことはよく覚えていたし、房中の術も申し分なかった。しかし交わる度に気をやるのでは困る。もう少し体力を付けなければ、などと考えて内心で嘲笑した。

八方斎様が妻役に領内のくノ一を宛がおうとした真意は、あわよくば私の「次」を得たいという下心だとわかっている。くノ一だろうと、遊女だろうと、どこぞの大家の娘であろうと、私の種を出来るだけ多くの女の胎に宿したいのだ。行く当てのない私を拾ってくださり、軍司として今日まで側に置いてくださった恩を決して忘れはしない。あの方のご下命とあらばこの命も惜しみなく投げ出そう。
だが、この子を連れ帰ったあの夜から、私はこの子の人生を己のものにすると決めているのだ。村を焼かれ親を亡くした子供。寒さを凌ぐ術も持たぬ子供。自分を拾ったのがどういう種類の人間かも知らず、ただ純粋に、雛鳥のように付いてきた哀れな子供。
私は決して得られぬはずのものを得た。得難い存在を得た。私とこの子は父であり子であり、師であり弟子であり、兄であり弟であり、夫であり妻であり、そしてこの子は私自身でもある。

――きり丸、お前のすべては私のものだ。いちばん最初から。

***

親子ほどの年の離れた二人が、共に白い装束姿で山道を歩いている。背の高い男は、少年の手を引いている。
道の半ばですれ違った農夫が、子どもの顔に見覚えがあるような気がして振り返った。高い位置で結われた豊かな黒髪が、細い肩の上で揺れている。
「あんた、確かあの時――村の外れのうどん屋で――」
かけられた声にふと立ち止まり、少年は農夫を見た。穴が開くほどじっと見詰めて、それからふっと口元を緩めて「知らないよ」と笑った。どこかあだっぽい笑顔だった。
「行きましょ、先生」
農夫はぎくりと竦み上がった。こちらを一瞥した後、男はふたたび少年の手を引いて歩き出した。
睨み殺されるかと思った、と農夫は冷や汗を拭う。いつか誰かに言われた言葉が、そのまま口からぽろりと零れた。

「知らない方がいいこともあるのさ……」

農夫が次に振り返った時、二人の姿は忽然と消えていた。文字通り、この世界から消えたように思われた。