夜去りつ方小夜すがら

その人は真夜中にやってくる。

目を覚ました時、辺りは真っ暗だった。丑の刻を過ぎた頃だろうか。しんと静まり返った長屋の部屋で、同室の二人はすやすや寝息を立てている。なんだ、ときり丸は溜め息を吐いた。おかしな時間に目を覚ましちゃったよ。べつに厠に行きたい訳でもなし、たまーに頼まれる起床の鐘を鳴らすアルバイトの時間でもなし。あーあ、早起き損だ。損だって、ちぇっ。頭の中でぶつくさ文句を言いながら、もう一度寝直そうと布団を持ち上げて、そこでぴたりと動きを止めた。

——誰かいる。

刺すような視線を感じる。襖の向こう、誰かがこちらを見ている。こめかみを伝う冷たい汗を拭うことも出来ず、きり丸はじっと息をひそめた。曲者?こんな時間に?いやこんな時間に出る曲者こそ正しいのだ。いつも真昼間から次々に事件が起こるせいで、どうも感覚がマヒしているな。でも変だ。曲者だったとして、なんで誰も出てこないんだろう。気配を察知した五年生か、六年生の先輩あたりが即刻駆けつけて来そうなものなのに。そもそも侵入者なら事務の小松田さんだって——いやそれより先に先生方が——
そこで「あれ?」と声が出た。気配に覚えがあったからだ。きり丸はつい先刻までの緊張感を忘れて布団から抜け出すと、二人を起こさないよう足音を消して、そうっと静かに襖を開けた。

「土井先生」

廊下に佇んでいたのは彼の保護者で担任教師だった。きり丸はこの人をとても——とても好きであるので、ほっとして思わず笑みを零した。もはや何の警戒心も抱いてはいなかった。寝間着姿で髪を下ろしている所為で普段とはずいぶん雰囲気が違って見えるけれど、きり丸にとってはごく見慣れた姿だった。休みの日には日が昇りきるまで寝穢く眠る先生。大きな口を開けて欠伸をするだらしない先生。寝癖の付いたぼさぼさの髪をぞんざいに指で梳かす先生。不精髭もそのままに朝餉をいただく、今にも船を漕ぎ出しそうな先生……。
だが、今夜の先生はどこかいつもとは違うような気がした。先程からこちらをじっと見詰めたまま微動だにしないことを不審に思って、その瞳を下から覗き込む。そこに常の柔らかな黒とは違う、仄暗い赤茶の色を認めて、きり丸は漸く目の前の人が彼のよく知る「土井先生」ではないことに気が付いた。
「……先生」
不意に、頬に微かに触れるものがあった。ひやりと冷たい指先の感触。一体いつからここに居たんだろう、と思った。おれが気配に気付いて起き出してこなければ、朝までここで立ち尽くしていたのかもしれない。そう考えて、きり丸はぎゅっと目を瞑った。大きな手。いつもはほんのり温かい、今は氷みたいにつめたい先生の指。ほんの少しでも熱を分けてあげたくて、そっと頬を摺り寄せる。一瞬間、怯えたように指先が震えた。構わず頬を押し当てる。常のように優しく頭をなでて欲しかったけれど、それでなくても構わなかったので、代わりに自分から手を伸ばした。太い腕を両の手で引き寄せて、あなたはおれに好きに触っていいのですよ、と勇気づけるように態度で伝えた。少し遅れて、ゆっくりとおとがいに触れてきた指に今度こそ安心して、きゅっと太腿に抱き着いた。指は下に降り、そのままほそい喉を撫でた。気持ち良さとくすぐったさが混ざり合って、きり丸は「ふふ」と声を出して笑った。直後、片手で喉を掴まれた。きり丸は目を見開いた。首を傾げたつもりだったが、実際にはまったく身動き出来なかった。ぐ、ぐっと指先に力がこもる。もうちょっと強く締められたら折れちゃうな、と思ったが、別にそれでも良かったのでもういちど目を閉じた。だらんと腕が落ちる。——先生、先生はおれをどうしたっていいのです。

指先がゆっくり離れていく。きり丸は「ぷは、」と大きく息を吐いた。続いて肺に空気を取り込む。呼吸を整えて徐々に目を開くと、つい今しがた喉元を掴んでいた手がこちらに差し出されていた。求めるように。招き寄せるように。
「おいで」
素直に頷いて脚を踏み出そうとした時、後ろから「……きりちゃん?」と呼ぶ声がした。咄嗟に振り返って、乱太郎が寝惚けて発した言葉だとわかって、きり丸はもう一度「先生」の方に視線を戻した。

闇の中には誰も居なかった。辺りは静寂に包まれ、確かにそこに居た気配も消えていた。

***

「夕べ、きりちゃんの夢を見たんだ」

小鉢の中身を丁寧に箸で掬い上げながら、思い出したように乱太郎が言った。
知ってる、と出かけた言葉をすんでのところで飲み込んで、きり丸は「なんだよ、四六時中いっしょに居るくせ、夢の中までおれに会いたいのかよ」と軽口を叩いた。今日のAランチはサバ味噌定食だ。食堂のおばちゃんが作る栄養満点の美味しいご飯が食べられる昼食時は、一日のうちで最も楽しみな時間なのだ。
「んー、内容はよく覚えてないんだけどね。なんかきりちゃん、誰かと一緒だったよ」
「誰かって……」
「だれぇー?」
五杯目の白米を平らげながら、しんべヱが会話に割り込んできた。
「えぇ~わかんない。でもどこかで見たことあるような……大人のひとだったかも?」
「おとな?きり丸が一緒にいる大人なんて、そんなの土井先生くらいじゃない?」
ぴくり、と思わず肩が動いた。何でもないふりをして、きり丸は残りの味噌汁を一気に啜った。
「土井先生じゃなかったんだけどなー。なんかもっとこう……もっとこうなんか……。あ、噂をすれば土井先生」
乱太郎が指差した方を見やると、食堂のいちばん端っこの席に見慣れた背中があった。心なしか俯いて、元気がないように見える。朝からずっと心ここにあらずといった様子の先生を、みんなとても心配していたのだ。
「どうしたんだろう?今日の授業なんてほとんど進んでなかったし……。代わりに宿題はいっぱい出たけど」
「ほんとだよ~!居眠りできてラッキーって思ってたのに、こんなことなら普通に授業してくれた方がマシだったよ、もう」
きり丸はその会話には加わらず、ただ先生の後姿をじっと見つめた。何か深刻な物思いにふけっているようだった。
「ごちそうさま!」
お膳を戻しに行く際に、先生の傍を通り過ぎた。膳の上のうどんは伸びきっていた。
「先生ったら勿体ない!食べないんならボクが食べてあげますよ!」
担任教師は咄嗟に顔を上げると「ああ頼むよ。なんだか食欲がなくて、おばちゃんに怒られてしまう」と笑った。無理やり作ったような笑顔だった。しんべヱがあっという間に丼を空にして、「それじゃあ失礼します」と並んで頭を下げて食堂を出ようとした時、不意に「きり丸」と呼び止められた。
「夕食が済んだら、私の部屋に来なさい」

満腹でよたよた歩くしんべヱを二人で押して廊下を歩いている途中「そんなにきっちり巻いて、苦しくない?」と首元を指差された。や、今日は一段と寒いからさ、と笑って答えながら、きり丸は喉まですっぽり覆ったスカーフをさらに引き上げた。

***

賑やかな夕餉の後片付けを終えて、行水が過ぎると上級生に叱られながら湯浴みを済ませて、いつもより丁寧に髪に櫛を入れてから、「んじゃちょっと先生に呼ばれてるから」と二人に言い置いて部屋を出た。今夜もとても冷えるので、湯冷めしないように羽織を着てきて正解だった。背丈より少しばかり大きい羽織は上級生のお下がりだ。自分で何代目なのか、ところどころに染みがあったり解れて糸が出たりしているけど、そんなことちっとも気にならないくらいあったかい。お下がり制度は学園に来て良かったと思うことの筆頭だった。これ、来年はおれも後輩にあげなきゃいけないのかな。直して売ったらいい値になると思うんだけど……。そんなことを考えながら歩いていると、あっという間に先生方の部屋の前まで来ていた。襖の前に正座して、すうっと一つ大きく息を吸った。
「きり丸です」
入りなさい、と中から声がした。失礼します、と引手に手を掛ける。体の中心まで襖を開けると、奥の机の前にこちらに背を向けて書き物をしている土井の姿が見えた。両手を畳に付いて、体をにじって入室する。あれ?と首を傾げた。もう一人いる筈の先生の姿がどこにも見あたらなかった。
「山田先生はいらっしゃらないんですか?」
「うん、いろいろと後処理に追われておいででな。今夜は帰れそうもないから出先で宿を取ると知らせがあったよ」
襖を閉めて姿勢を正しても、先生はこちらを見ようとはせず、ただ一心に机に向かっていた。今朝からずっと目も合わせてくれないことに、きり丸はちょっと傷付いていたし、いい加減焦れてもいた。先生がそうせざるを得ない理由を、よくわかっていたからだ。
「後処理に追われてんのは先生もおなじでしょ。ここんとこ、ろくに寝てないんじゃないですか」
「、そうだな……」
思い当たる節があるようだった。手の動きを止めて、土井はようやくきり丸に向き合った。こちらを見詰めるその目の奥に、仄めく赤がちらついた気がした。じっと見つめ返して、きり丸はゆっくり口を開いた。

「あの人が会いに来たんです」

土井の顔が曇った。目の下にできた濃い隈が痛々しかった。
「夜中に、ぼく達の部屋に。ぼくに何か言いたいことがあるみたいでした。ぼく、行こうとしたんです。でも行けなくて、だから」
「きり丸」
遮るように名を呼ばれて、反射的に息を呑む。土井は恐ろしい顔をしていた。——否、恐ろしいものを見た顔をしていた。或いは、自分自身が恐ろしい何者かである自覚があるのかもしれなかった。彼は声を絞り出した。
「扉に錠をかけなさい」
有無を言わせぬ口調だった。
「先生、」
「気付かない振りをするんだ。目を開けず、声を出さず、何があっても決して——決して部屋に入れてはいけない」
「ねえ先生、」
「あの男の言うことを聞いてはいけない」
言葉を発するたび、土井は苦痛に顔を歪ませた。きり丸は首を横に振る。先生、そんな顔をしないで。そんなふうに言わないで。だって、
「だってあの人も先生です。ぼくは、先生のこと拒めない」
「やめろ!」
悲鳴のような声だった。土井が感情的に声を荒げたのは初めてだった。みぞおちを打たれたような衝撃に、きり丸は暫く声も立てられなかった。そのまま、息も詰まるような数分間の静寂が過ぎた。
「……スカーフを外しなさい」
一転して静かな声だった。意味を理解して、きり丸は素直に頷いた。指を掛けて少し引くと、それはしゅるっと音を立てて簡単に解けた。露わになった喉元に、赤黒い指の痕がくっきり残っていた。
「、ああ……」
土井は苦悶の表情で教え子を見た。暗愁が心を翳り、堪らず天を仰ぐ。昨夜それを付けたのが紛れもない自分自身であると、彼は知っているのだった。

「先生、ぼくは先生になら、何をされてもいいんです」

土井は信じられないものを見る目で子どもを見た。こちらを射るような強い眼差しは、まるきり大人のような言葉を紡ぐ唇は、本当に己がよく知る愛し子のものだろうか?この子はいつの間にこんな表情をするようになったのだろうか?
「あの人が僕に言いたいことがあるのなら、それは」
「、やめてくれ」
「先生もそうなんじゃないですか?ぼくに言いたくて、でも言えないことが」
「やめてくれ……」

——後生だから。

瞬刻、きり丸は手首を掴まれ引き寄せられていた。
「お前はこれっぽっちもわかっちゃいないんだ」
頬にじかに触れる熱い胸板の感触に、首の後ろと背中に回された大きな手のひらに、きり丸は熱い吐息を漏らした。——手、汗ばんでる。大好きな先生の手。氷みたいにつめたくても、じっとり熱を持ってても、どっちもおれの大好きな人のもの。何も違わない。だからいいんだ、いいんです。せんせい、土井先生……。
羽織を落とされ、ごつごつした指が後ろ襟から入り込んでうなじを撫でた。反対の手が背骨をつうっとなぞった時、思わず「あっ」と声が漏れた。流れるように帯を解かれて、露わになった上半身をもういちど抱き締められた。

「きり丸、わたしはお前が可愛い。誰よりも大切に想ってる。幸せになってほしいと心から願ってる。いつかお前が誰かを愛して、わたしの許を離れても、元気で生きていてくれさえすればいい。その想いに嘘はないんだ」

言葉とは裏腹に、袖口から入り込んだ手は先程から不埒な動きを見せていた。平らな胸を指の腹で撫で上げて、へその周りをぐるりと円を描くようになぞる。漏れる声を我慢していた唇が、ちいさく尖った乳首をぴん!と弾いた途端「ヒッ」と高い声を漏らした。
「何をされても構わないと言ったな。何をされるのか碌にわかってもいない癖に、よくそんな事が言える。……わたしがお前にどんなことを望んでいるのか、お前がいつか大人になる日をどんな想いで待っているのか。何ひとつ本当に、わかっちゃいないんだ。お前を害する者は排除する。それがたとえわたし自身であっても。お前を奪われるくらいなら、いっそ」
畳に背中を押し付けられて、上に圧し掛かられた。こんな角度から先生を見上げるのは初めてだった。大人の体にすっぽり隠れてしまうほど己は小さいのだと、きり丸はここに至ってようやく思い知った。
「せ、先生……土井せんせい」
今にも消え入りそうな声だった。大きく開かせた脚の間に顔を埋めたまま、彼の保護者はちらりと目線を寄越した。

「頭を、なでて……」

灯りが消え、辺りは黒暗に包まれた。子猫が鳴くような細い音が響いて、やがてそれも闇に飲まれて消えた。

***

「土井先生?あのう、きり丸こっちに来てます?」

襖を開けた乱太郎がひょこっと顔を出した。
「先生に呼ばれてるって出て行ったきり戻ってこなくて……あ!やっぱり寝ちゃってる!」
部屋の奥に敷かれた布団に、羽織を掛けて横になった親友の姿を見つけるなり、乱太郎は「もお~」と安堵のため息を吐いた。
シー、と口の前に人差し指を当てて、彼らの担任教師は柔らかな笑みを浮かべた。
「もう遅いから、今夜はここで寝かせるよ。明日の朝には部屋に戻るようにするから」
「わかりました。……あの、土井先生」
ん?と促すと、乱太郎は少しだけ言葉を探しているようだったが、ぱっと顔を上げて笑った。

「先生がお戻りになって、ほんとに良かったです」


ぐったりと眠る子どもの、浴衣の上前を開く。小さな体に付いた異様な数の情痕を見とめて、男は口の端を吊り上げて笑った。
「錠を掛けろとは笑わせる」
新雪を踏み散らすのは己でなければ気が済まなかったと見える。だがこれで言い訳は立つまい。奴は私を遠ざけたかったようだが、こうなってはもう同じことだ。——この子は知ってしまったのだから。
剥き出しの肩に歯を立てると、柔らかい肉に食い込んで肌がぷつりと切れた。痛みにううん、と子どもが身じろいだ。
「、先生……」
宙に伸ばされた手を戯れに取ると、赤子のようにきゅっと握り返してきた。肩に浮かぶ一粒の鮮やかな赤を舌先で舐める。鉄の味がじわりと広がった。男はくくっと喉を鳴らした。

「何処へなりと行こうか」


お前を連れて。