初めて会った日のことを覚えてるよ。
「先生さよーならー」
「おう、また明日な」
パタパタ足音を鳴らして駆けて行く子どもたちと軽く挨拶を交わして、その後ろ姿を見送ってから、松岡は再び廊下を進み出した。前の授業で使った英語教材を資料室に運んで、職員室に戻って今日の小テストの採点をしなければならない。ああそうだ、二組の進行が他と比べてやや遅れ気味だから指導要項も見直しをしておくべきか。そんなことを考えながら、三階へ続く階段に一歩足を掛けた時だった。
「松岡先生」
空気が変わった気がした。子どもにしては大人びた、少し低めの、しかしどうしても幼さを隠しきれないその声は、澄み切った波音のように響いて、真っ直ぐに耳に入ってくる。なのにそれはどこか危うい響きを持つのだ。いつでも。
「……七瀬」
松岡が担任を受け持つ六年二組の生徒、七瀬遙は、階段の踊り場に立ってこちらを見つめていた。自然、見上げ、見下ろされる形になる。いつもと逆だな、と思った。
「どうした、まだ帰らないのか」
一歩、一歩、階段を上りながら問い掛ける。じりじりと距離を詰めているような気分だった。実際そうなのかもしれなかった。遙は涼しげな顔で「授業でわからないところがあったから、聞きに行こうと思って」と答えた。一歩も後ずさりせず、僅かにひるむようなこともなく、その場所でじっと、松岡が近付いて来るのを待っていた。
階段を上り切り、二人の立場の上下は逆転した。遙は松岡をじっと見上げ、そしてすぐにその手元の資料に視線を移した。
「それ、運ぶの」
――手伝おうか、先生。
自分のスーツの第三ボタンくらいまでの背丈しかない小さな子どもの頭頂部を眺めながら、松岡は言った。
「じゃあ、一緒に来なさい」
廊下を並んで歩きながら、遙が時おり「なんで形容詞がこの順番で並ぶのかわからない」とか「どうして英語には形容動詞がないのか」とか質問してくるのに、「それを表す時いちばん本質に近い形容詞が後ろになるんだよ」と説明したり、「ていうかお前ほんと典型的な日本人ぽい考え方してんな」等といちいち返してやったりしながら、松岡は気持ち速度を落とし、歩幅を狭めた。さして量もない教材の三分の一ほどを腕に抱えた遙が「じゃあ先生が授業の時わざと下手くそな発音でしゃべるのは日本人が相手だから?」と可愛くない発言をしてきたので、持っていた指示棒で頬っぺたをぶにゅりと突いた。
資料室の扉を開けて、遙を促し先に中に入れると、松岡は目線だけを動かして辺りを見回した。十月の夕方、窓の外はすでに薄暗い。生徒もそのほとんどが帰路に着いたらしく、子どもたちの声も聞こえてこなかった。今、この階に自分たち以外は誰も居ない。そう確信して、松岡は室内に足を踏み入れると、俯いたまま後ろ手に鍵を掛けた。カチャリ、と金属音がやたら大きな音をたてて響いた。
ゆっくりと顔を上げる。部屋の中央に突っ立ったままの遙が、僅かに首を傾げてほほ笑んだ。
「……凛」
遙に覆い被さる自分が雄の顔をしていることを、松岡は自覚していた。
***
入学式も終わった四月の第二週、 松岡はこの度の人事で転任先となった岩鳶小学校の門をくぐった。先月まで赴任していた佐野小学校と規模は同じくらい、狭い田舎の校舎なんてどこもみな似たり寄ったりだが、一つだけ違うのは、プール脇にどっしりと佇む、古い大きな一本の桜の木だった。この小学校が建てられるより前からここにあるというのだから、さぞかし長い時間を過ごしてきたことだろう。幾つもいくつも移り変わる景色を、変わらずこの場所で見つめてきたのだ。花はすでに見頃を終え、散り始めていた。しかし桜は散り始めこそが最も美しいと思っている松岡にとって、今はまさに最盛期と言えた。薄いピンクの花びらが、風に舞いながら散ってゆく。
――きれいだ。とても。
ばしゃん、と派手な水飛沫の音がした。
驚いて視線を上げると、フェンス越しに見えるプールの中に、誰かが飛び込んだらしかった。
(、はぁ!?まだ四月だぞ!?どこの馬鹿だよ!)
慌てて松岡はフェンスの裏手に回り、入口から中に入ろうとしたがそこに南京錠は掛かったままだった。ということは、これを登ったのか。……間違いない、馬鹿だ。
(あーもう、くそガキ!)
ガシャンガシャンガシャン、と金網を掴んでよじ登る。スーツ新調したばっかなのにどっか引っ掛けたりしてねぇだろうな、と考えながら、フェンスの上から勢いよく飛んで、松岡はプールサイドに着地した。
水面に誰かが浮かんでいる。おいまさか自殺じゃねーだろーな勘弁しろよ!と若干青くなりながら、松岡は上着だけを脱ぎ捨てて勢いよくプールに飛び込んだ。
ばしゃばしゃ水音を立て泳ぎながら、静かに浮かんでいるそれに近付いていく。薄青のシャツに無地の黒いズボンを履いたそれは、やはり子どもだった。ここの生徒か、事故か、自殺か、どっちでもいい、早く!
「おいお前!」
腕を掴んで引き寄せ、胸元に抱いて顔を覗き込んだ。「しっかりしろ!目ぇ開けろ!!」
その途端ぱちりと音を立てて、子どもが目を開けた。
まともに目が合って、松岡はひゅっと息を呑んだ。
大きく見開かれた瞳は、深いふかい海の色をしていた。
「……だれ」
薄く開いた小さな唇から、漏れたその声を聞いた瞬間、松岡凛の世界は一変した。
(――ああ、俺は、)
二人の髪に、肩に、頬に、止まず桜の花弁が降る。それはやがてひらひらと水面に舞い落ちていった。
***
カーテンを閉めきった部屋は薄暗く、空気がやたら重く感じられた。 気温はだいぶ下がっているはずなのに暑くてたまらない。二人分の荒い息遣いが、今までこの部屋で何が行われていたのかを雄弁に物語っていた。
「ぁ、あ……凛、」
「なに…?」
遙を胸の中に抱きながら、凛はその首筋に鼻を埋めた。いとしい子どもの匂いがする。
「も、ぅいっかい、して……」
体を完全に預けきって、身も心もどろどろに蕩けたまま、舌っ足らずな口調で遙が強請った。
「……駄目だ。やり過ぎるとお前、熱出しちまうだろ、ハル」
薄い耳たぶを食みながらそう言うと、仰け反って悶えた。凛の与える快楽に、遙はひどく従順だった。
「だいじょぅぶ、だから」
首に腕を回して縋り付いてくる、遙の体温がわずかに上がっているのがわかった。
「今日はもうお終い、な」
宥めるように頭を撫でてやると、「いや、」遙が首を振った。
「ハル、……ハル。いい子だから。俺はまだ仕事があるし、お前も早く帰らねえと、家の人が心配するだろ。なあハル、そろそろ服着ろって……風邪ひくぞ」
ほそい肩に手を掛けて、強引に引き剥がそうとしてみたが、結局のところ遙を本気で拒絶することは凛には出来なかった。ふうっと小さく溜め息を吐いて、赤くなった耳もとに殊更やさしい口調で「ハル」と囁いた。
遙は尚も首を振る。見上げてくる目が快感を忘れられずまだ揺れている。吸い過ぎて赤く腫れた唇が痛々しい。ぎりぎりのところで理性を総動員して、体に痕を残すことだけは抑えている。いつまで抑えられるかは自信がないけれど。
もう一度ハル、と呼ぼうとするより先に、「凛」と呼ばれた。
「凛、りん、……愛して」
幼い子どもが言う言葉ではなかった。こちらを見詰める目はもはや子どものそれではなかった。凛は低い声で唸ると、やがて尖った歯で遙の白い喉元に思いきり噛み付いた。
遙が歓喜の悲鳴を上げて、二人は再び床の上に倒れ込んだ。
押さえ付けられて揺さぶられながら、遙は心底うれしそうに、楽しそうに、笑って言った。
「凛先生って、呼んでやろうか」
「……今は勘弁してくれ」