土井きり(天きり)

振り翳した刀が地面に落ちる音が響く。全身から力が抜けて、もはや立っていることも出来ずに膝をついた。 「土井先生!」 つい今し方まで刀を突きつけられていた子どもたちが駆け寄ってくる。顔も名前も到底思い出せなかったが、この子らが自分にとってどれ…

*希う

ここいらじゃ見かけない良い女がいる。馬小屋を掃除しながら男は視線を泳がせた。黒くて艶やかな髪を肩を過ぎるくらいまで垂らして、吊り上がった大きな目が印象的な若い女だった。歳は十四、五くらいだろうか。女だてらに商いをしているらしく、大きな箱笈を…

あかつき降ち

陽の光の眩しさに、わずかに目を開いた。藁拭きの屋根が視界に入る。視線を動かせば低い土壁が見えた。全体的に簡素なつくりの家である。未だ見慣れたとは言えない景色に、きり丸は一瞬呆けて「ここは何処だったっけ」と考えた。やがて幾らもしないうちに、こ…

*宵の稲妻 花つ妻

――もし、夜霧さまではありませぬか。場末の宿で軽い食事を摂っている最中に、声と同時に袖を引かれた。数年前の仮の名を知る者など、今となっては殆ど居ない。どこぞの追手かかつての同業かと視線を投げるも、そこには妙齢の女がひとり佇んでいるだけだった…

*あやめも知らぬ 恋の闇路

あなたと出逢ったあの夜に、ぼくは世界に陽が射すことを知りました。寒い夜でした。物乞いをしていた道端で、後ろから羽交い絞めにされて暗がりに連れ込まれたのです。三人がかりでした。一人がぼくが着ていたぼろを引き裂いて、一人がぼくを丸裸に剥きました…

*天の足り夜、とことわの夢

まあねえ、でも良いことばっかじゃないわよねえ。空になった丼を盆の上に重ねながら、うどん屋の女将は大儀そうにつぶやいた。「よく言うよ。ここんとこ懐があったかいくせにさあ」嫌味たらしくそう返したのは、店の常連の男だった。いつもは閑古鳥の鳴いてい…

夜去りつ方小夜すがら

その人は真夜中にやってくる。目を覚ました時、辺りは真っ暗だった。丑の刻を過ぎた頃だろうか。しんと静まり返った長屋の部屋で、同室の二人はすやすや寝息を立てている。なんだ、ときり丸は溜め息を吐いた。おかしな時間に目を覚ましちゃったよ。べつに厠に…