遙・イン・ワンダーランド

遙が扉を開けると、そこは大広間だった。

床は磨かれた大理石で、天井のシャンデリアはダイヤモンドでぎらぎら輝いている。悪趣味だな、と思いながら手をかざして目を細めてみても、四方のどこにも壁が見当たらない。それほどこの部屋は出鱈目に広いのだ。
部屋の中には幾多の真っ白な丸テーブルが並んでいた。すべてのテーブルの中央にティーポットとカップが美しく並べられ、さあいつでもお茶会が出来ますよと高らかに主張しておりながら、そのすべてが空であった。
ここにあるポットぜんぶにお茶を淹れるのにいったい何ヶ月かかるだろうか、と遙は呆れた。まったく気の遠くなる話だ。
だだっ広い大広間の、いちばん真ん中のテーブルに、ぽつんと座っている男が居た。遙はとりあえず近付いてみた。あの、と声をかけるより早く、男が口を開いた。
「席はないよ」
男は帽子屋だった。真っ黒なスーツに真っ黒なシルクハットを被って、嫌味なほどに長い脚を組んだ、その恵まれた体格に反してどこか頼りなげな声だった。大きなテーブルなのに、遠慮がちに端に座っているのも性格らしかった。

(丸テーブルの端ってどこだ?)

帽子屋はすまなそうに眉毛を下げて繰り返した。
「席はないんだ」
遙はぱちり、と目を瞬かせた。彼の左右にも、向かいにも、誰の影もなく、そのくせテーブルには椅子と同じ数だけのティーカップがきちんと揃えられていた。向かい側の椅子を指差して、遙は言った。
「でも、空いてる」
男はふっと小さく笑みを浮かべた。
「それじゃあ、お茶を飲んでいきなよ」
遙はますます不思議に思って首を傾げた。
「ポットは空だ」

ガタン!と大きな音がして、驚いた遙が振り向くと、いつの間にか男の隣にさっきのうさぎが座っているのだった。
(いま後ろを振り返ったのに、なんで同じ方向を見ているんだろう)
「いちごのケーキを食べようよ!」
浮かれたうさぎは楽しげにそう言うと、けらけら笑った。遙はテーブルを見回したが、やっぱりそこには空っぽのティーセットのほか何もありはしないのだ。
「でも……何もない」
「なにもないっていうのはつまり、なんでもあるってことだよ」
空っぽの皿を大事そうに抱えて、うさぎは夢見るように言った。帽子屋が空のポケットからカップにお茶を注いだ。
「冷めないうちに」
勧められて遙はカップを手に取った。中身は空だ。お茶もケーキもないお茶会はさみしいと思った。ここには何でもあるはずなのに。
「おれがケーキを焼こうか」
途端にうさぎはぴん!と真っ直ぐに耳を立てた。そうして見るからにそわそわしながら、「ねえ、いま何時だと思う?」と尋ねた。燕尾服のポケットから懐中時計を取り出して、ちらちら振りながら期待するようにこちらを眺めている。遙は時計を覗き込んで答えた。
「三時」
うさぎは嬉しそうにぱちん!と時計を閉じて、遙に向かって片目をつぶってみせた。
「そう、三時。ここはいつも三時。だからいつでもお茶の時間なんだよ。ケーキがお茶に間に合わないなんてことないから、安心して」

ぱしゃん!と音がして、振り向くと向かいの席にまた誰かが座っていた。遙は自分が今どちらを向いているのか、さっぱりわからなくなった。
庭師の格好をした男は、白いバラの花束を赤いペンキで勢いよく塗りつぶしながら「どだい無理な話なんですよまったく」とぶつぶつ言うと、空っぽのティーカップをぐいと飲み干した。
「そもそも一万本の白バラを赤に塗り替えろなんて、非常識にも程がある。意味がわからない!」
うさぎがいそいそ傍に寄って、庭師の前掛けを引っ張った。空っぽの皿をすすめられた庭師は「僕は仕事中ですので、お茶を一杯だけで結構です」とやんわり断った。
「どうして白バラを赤く塗るんだ」
遙が尋ねると、庭師はかるく眼鏡を押し上げて内緒話をするように声をひそめた。
「赤いバラの庭にするはずが、間違えて白バラを植えてしまったんですよ。それで赤く塗り直しているんです。こんなことが王に知れたら首を切られますから」
「王?」

突然、ラッパの音が辺りに鳴り響いた。うさぎは耳をへにゃりと横に寝かせた。庭師は「少しくらい猶予があってもいいでしょうに」とぷりぷりしながらバラにペンキを塗り続けた。帽子屋が困ったように呟いた。
「王のお成りだ」

ばあん!と勢いよく扉が開いたすぐ後に、どやどやと大勢の音がして、大行列がやってきた。平べったいカードみたいな体の四隅に手足が生えている兵士たち、ハートの飾りが付いた子どもたち、それからお客さま方。誰もが皆んな浮かれた様子で手を繋いで、きゃっきゃっと笑いながら歩いている。
遙がぎょっとしたのは、いつの間にかその中にうさぎが混じっていたからだ。うさぎはさも当然のようににこにこお喋りしながら、なんとその手にはビロードのクッションに乗った王冠を捧げ持っていた。
「お辞儀をなさい」
後ろ手にバラを隠しながら、庭師が言った。
「王がこちらへ来るよ」
シルクハットを胸に抱いて、帽子屋が囁いた。
行列は遙のそばで一斉に立ち止まると、ピタリとお喋りをやめた。辺りがしんと静まり返って、空気の震える音まで聞こえそうになった時、とうとう大行列のしんがりに居た王がお出ましになった。真っ赤な外套をひるがえして歩いてきた王は、遙の正面にやって来て「お前は何者だ」と厳しい声で尋ねた。
「……遙」
こら、と帽子屋がいさめた。そうして代わりに
「遙と申します、王様」
とうやうやしく答えた。
「ここで何をしている」
冷ややかに見下ろしながら王が再び尋ねた。遙は先程から王の偉そうな物言いにかちんときていたので、不機嫌さを隠そうともせず
「知るわけないだろ」
と言い捨てて、そのままプイとそっぽを向いてしまった。
「王に差し上げるバラを用意しておりました」
庭師はそう言うと、バラの花束を素早く遙に握らせた。
「寄越せ」
それで遙はもう、王の横柄な態度が我慢ならなくなって、受け取ったバラの花束をそのまま王に向かって投げ付けた。
ああ!と行列から悲鳴が上がった。
「首を切れ!」
誰かが叫んだ。
「その無礼者の首を今すぐ切り落とせ!」
平べったい体の兵士たちが、遙に向かって一斉に剣を振り上げた。
「まあ待て」
胸もとに投げ付けられてぺしゃんこになったバラを一本、手に取って王が言った。
「鮮やかすぎる赤、この美しさは自然の色ではないな。……偽物だ」
王が指でなぞると、花びらからポロポロと赤いペンキが剥がれ落ちた。
「紛いものを献上した罪で首を切れ!」
また誰かが叫んだ。物騒なことばかり言うな、と遙は王を睨み付けた。どうせこいつもろくでなしに違いない。
王は澄ました顔で「引っ立てよ」と命じた。
お待ちください、と帽子屋が一歩前に進み出た。
「よそ者ゆえ礼儀を知らないのです。よそ者には礼儀を学ぶ権利がございます」
そう跪いて申し開きをした。
「ケーキを焼いてくれるんだよ」
いつの間にかテーブルに戻ってきたうさぎが、椅子に座って頬杖をついた。
「もうすぐ三時だもの」
フン、と王が鼻で笑った。
「まがい物のバラはどうする」
「失礼ながら」
庭師が前に出て一礼した。
「そのバラは王宮の庭に咲いていたもの、王の私物でございます。……つまり罪は王のもの」
ぎょっとして遙は庭師を振り向いた。……いくらなんでもその言い分は。
「はははっ!」
王が声を出して笑った。その笑い声にどこか聞き覚えがある気がした。
「王は侯爵夫人の死刑も取り下げた!」
行列からまた大声が上がった。
「つまり侯爵夫人の罪も王のものだ!」
剣を抜いた平べったい兵士たちが、今度こそわあっと襲い掛かってきた。こいつら糾弾する相手は誰でもいいのか、と遙は呆れた。
「まずいな」
王は呟くと、遙の手を取って駆け出した。なんて人望のない王だ、と広間を走り抜けながら遙は思った。

「侯爵夫人の、罪は何だ」
長い廊下の途中で息を乱して尋ねると、遙の手を引いた王は振り向かないまま答えた。
「猫に餌をやらなかったんだ」
罪人どもの首を切れ!とはるか後方で声がした。もはや王とも呼ばないことにますます呆れた。
追手の声はだんだん遠くなり、そのうち完全に引き離したようだった。
「餌をやらないのは、よくないけど」
でも死刑になるほどじゃない、荒い呼吸を抑えてつぶやくと、王が少し笑ったのがわかった。走る速度が緩やかになる。
王の顔は見えない。
「そもそも餌を食い過ぎて太ったんだ。妹はあれを可愛がっているから、病気になっちゃ困るだろ」
「じゃあ侯爵夫人て、おまえの」
ほとんど歩くばかりになって、遙は自然と王の隣に並んだ。王は片手で器用に外套を脱ぐと、遙の肩にふわりと被せた。
「これからどうするんだ」
外套から顔を覗かせて遙が尋ねた。王冠も外套もない王は手を繋いだまま、遙の顔を見詰めてまた笑った。それで遙はやっと王の顔を見た。よく知っている顔だった。赤い髪が目の前で揺れる。
近付いてきた唇が、重なる前に名前を呼んだ。

「ハル……」

「起きたか?」

遙はぱちりと目を瞬かせた。
いつの間にか眠ってしまっていたらしかった。
「なんか手伝うかと思って早めに来たら、お前寝てるし。鍋が煮えてたから火ぃ止めたぞ、あとオーブンの中身がもうすぐ……」
そこでタイミングよくチン!と音が鳴った。遙は慌てて立ち上がると、台所に入ってオーブンを開いた。スポンジが理想的な黄色に焼きあがっていたので、ほっと息を吐いた。
「ケーキぐらい買ってきてやるのに」
「苺のケーキを焼いてやる約束だから」
お前の誕生日だろ、と凛は呆れたように言った。

台所のテーブルの上は料理でいっぱいだ。遙は安心した。空っぽの皿は一つもない。
「あいつら、いつ来るんだ?」
茶の間から凛の声がした。鍋の中身を掻きまわしながら、遙が答えた。
「三時」
出来た料理を運んでくれ、と後ろを振り向きかけた時、にゅっと顔の前に突き出されたものを見て、遙は目を見開いた。
鮮やかな赤いバラの花束だった。

「十八歳おめでとう、ハル」

鍋に蓋をして、遙はそっと花束を抱いた。露に濡れたみずみずしい花びらに指で触れても、赤い色が落ちることはなかった。
「十八本だから半端だけど、ちゃんと自分のバイト代で買ったんだぜ?春休みに引っ越し屋の短期でさ、いい筋トレにもなったし。お前こういうの趣味じゃねえって知ってるけど、ほら、気持ちとしてさ。付き合って半年になるし、こう、何だ、いつもケンカばっかしてっからあんま言えねーけど、俺ちゃんとお前のこと」
早口でまくし立てていた凛は、そこで口を閉じた。花束を片手に持ち替えて、遙が腹に抱きついてきたからだ。
「うれしい」
後ろ頭に手をあてて上向かせると、素直に目を閉じた。可愛いな、と凛は目を細めた。二人きりだったらもっと良かった、と少しだけ思った。

「……なんか、口の中、美味い」
「ビーフシチューだから」

ガタンガラガラ、と豪快に玄関が開く音がして、「ハルちゃーん、メリーバースデー!」と元気な声が聞こえてきた。
「なんですかそれ……あちょっと渚くん、プレゼントを振り回しちゃいけません!耳が取れちゃうじゃないですか」
「このイチゴ、大きくておいしそう……遙先輩のケーキ楽しみ~!」
「あっ凛もう来てるんだ。買い出し行ってきたけど、飲み物コーラで良かったかな?」
「えっ凛ちゃん来るの早すぎない?どうしよう、エッチなことしてたら入りにくいよね」
「してねえよアホ!」
江の前で変なこと言ってんじゃねーぞ!真っ赤になって廊下に向かった凛と、賑やかな友人たちの声が響いた。テーブルの中央に飾ったバラを見つめて、遙は満ち足りた思いでほほ笑んだ。

なんでもあるのだ。ここには。