「お幸せですか?」
横断歩道の信号が今まさに青になったところだった。
とつぜん声をかけてきた女に、ランガはうろんな視線を向けた。
掃除当番だった。校内で開かれた地域交流イベントの段ボールごみが大量に出て、それを指定の場所で一枚ずつ畳んで紐で縛ってまとめているうちに割と時間をくってしまった。ドープは定休日、久しぶりに明るいうちにパークでひと滑り出来るのに、1秒だって無駄にしたくなかった。急ぎ足で教室に戻ると、かばんを肩に下げたクラスメイトが三人、後ろ扉に張り付いて中を覗き込んでいた。
「なに?」
声を掛けると三人は勢いよくバッ!と振り向いて、シーッ!という動作と同時に小声で「こっち来い」とランガを手招きした。
「ちょうど良いとこに、お前もここで見守ってやれ」
「まさに暦の青春時代ワンツースリー!って感じよ」
何のことだか皆目わからないまま、薄く開いた扉の隙間から教室の中を覗いて、ランガは大きく目を見開いた。
「……居ないなら、いいじゃん」
知らない女子がこちらに背中を向けて、困った顔で眉を下げた暦と対峙していた。
「いや、あの。……でも俺ら、そういうんじゃなかったし」
しどろもどろになりながらも一生けんめい言葉を選んでいる姿を見て、それでわかった。
——ああ、これはあれだ。おれも何度か同じ経験がある。日本の男女間において時折りもとい頻繁に発生する、所謂「告白イベント」というやつだ。
「ほんとはずっと私、いいなって思ってたんだよ。喜屋武、決まってる子いないでしょ。私もフリーだし、付き合ってみようよ」
「いや……、でも」
なんだアイツはっきりしねーな!とそこでクラスメイトの一人が舌打ちした。
「そこはとりあえずウンつっときゃいいんだよ!」
「言うて割りと可愛いじゃん、なあ」
「けっこー胸あるし」
背は少し低めの、華奢ではない健康的な肉付き。濃い茶色の髪は肩に付くか付かないかの前下がりボブ。曰く、隣のクラスでバレー部副キャプ、友達は多め。暦とは中学からの同級生。
「仲良かったんだ?」
なんとなくそんな言葉が口をついて出た。特にそんなことが知りたかった訳ではなかったので、ランガは自分で聞いておきながら内心で驚いた。——人ってすごく動揺すると、どうでもいいこと言っちゃうんだな。
「グループで普通に遊んでたぜ。エイサー見に行ったりとか」
「あ、でも体育祭でペア組んでなかったっけ?一年の時さ」
「そういやそうか。じゃ前から暦んこと好きだったんかあ」
アリじゃん?有りだよなあ。でも暦のタイプとはちょい違うかも。何を贅沢な、そもそもアイツは好みが偏り過ぎてんだよ。等等、もろもろ好き勝手に(小声で)騒いでいるクラスメイトを尻目に、ランガはぼんやりと目の前の光景を見詰めていた。
……暦のことをずっと好きな、同い年の女の子。そんな子が居たんだ。暦はあからさまにすごく困ってるけど、あれで内心ちょっと嬉しいんだろうな。でも、
「好きな人いるの?」
それには答えず、暦はごめんな、と頭を下げた。頭頂部をベシッと軽く叩いて、彼女は足早に教室を出て行った。
「何様だよ暦オメーはよぉ!」
「フリーなら断る理由ねーだろが!」
「女子に恥かかすとか、男の風上にも置けん!」
覗かれていたことには最初から気付いていたらしく、お前らなあ、と呆れたような顔を向けた暦は、そこに予想外のランガの姿を見つけて一瞬だけ眉を顰めた。取り囲んでひとしきり罵り終わったところで、クラスメイトの1人が「けどさあ」と少しだけ真面目な声を出した。
「好みのタイプとは違くてもさ、とりあえずお試しで付き合っちゃえばいいじゃん。今はそうでなくても、そのうち好きになることだってあるかもしれねーし」
びくり、と肩が上下に揺れた。心にさざ波が立つような。そうかもしれないな、とランガは思った。
(今は好きでいてくれても、そのうち)
暦は彼らしからぬ、どこか曖昧な笑みを浮かべた。
他に人は居らず、パークは静まり返っていた。どちらからともなくボードを傾けて滑り出して、カーブトリックの得意技を夢中で披露している最中でさえ、二人は一言も言葉を交わさなかった。
そうするしかなかったとわかっているので、怒ったりはしない。もちろん、いい気分とは言わないけど。怒ったりしない。好きな人がいるだとか、そんなこと言ったらすぐさま大騒ぎになって追及されるってわかってるから。暦がおれを好きで、おれも暦を好きで、おれたちが誰にも内緒で付き合ってることとか、二人きりの時はボードに乗ってるか、キスしてるか、セックスしてるかしかないってことなんて、おれたちだけが知ってればそれでいい。だから何も気にしちゃいないけど、それでも。
「帰ろっか」
キックフリップを危なげなく決めて、足を地面にしっかり着地させてから、暦がつぶやいた。
「うん」
上の空で頷いた。今日はおれの家、どうだったっけかな。ぼんやりそんなことを考えていた。
上がる。上がって下がる。左右に揺れる。
髪を振り乱して息を吐きながら、めちゃくちゃに腰を振って、目の前の汗ばんだ首筋に縋り付いた。
「、ぁ————」
潰れた悲鳴みたいな細い音が鼓膜に響く。誰の声だろう?と思ってすぐにおれのだ、と気が付く。自分の喉からこんな声が出るなんて知らなかった。たまに気持ちよすぎて女の子が絶頂する時みたいな声が出たりもする。なんでそんなもん知ってるんだって怒られて、よけいに泣かされたこともある。レキああ見えてそういうの気にするから。でも燃えちゃうんだ。
あの瞬間って自然に顎が上がる。のどの日焼けしてないとこ、白いまんまのとこを仰け反らせると、暦はいつも嬉々として噛み付いてくる。大好きなカレシは今日もおれが腹の上で思いっきりイくとこを見て満足そうに笑ってた。ぴんと伸ばした背中が震えて、すぐにガクン!と糸が切れたみたいに脱力した。
「あ、ぁっ、ハァッ、は……」
べったりくっ付けたままの尻が、中をさんざん掻き回されたせいでまだジンと痺れてる。
「ぁ、も……、また」
腰骨の出っ張ったとこのすぐ下、少しだけ窪んだところに、真っ赤な指の痕が付いてる。強く掴んで揺さぶられるたび短い爪が食い込んで、なのに痛みを感じる暇もなかった。おれの中でイッた暦が、射精の瞬間にぎりっと奥歯を食いしばった時の、征服欲で歪んだ雄の顔をずっと見てた。限界まで足を開いてナカに出されて悦んでるおれは、そのとき確かに暦のためのオンナノコになってた。プライドなんかいらない。
「おぉ……猟奇的」
赤い痕を見て、暦は他人事みたいに笑った。いつもそうだ。ちっとも悪びれない。お前が勝手に狂ったんだ、そんなふうに。
制服の上着の前を留めていると、後ろからふいに回された腕が腹の前でぎゅっと交差した。
「……帰るの?」
「そりゃ帰るよ。もう晩メシだろ」
途端に拗ねたような空気を出す恋人に、暦は苦笑した。なんだよ、「今日はかあさん帰り早いから」って急がせたの、お前じゃんか。もともとエッチする予定じゃなかったから持ってなくて、じゃあ本番ナシなって言ったら引き出しの中から未開封の箱を出してきた。一つ二つじゃないそれを見て、俺は「どんだけヤりたいんだよ!」と怒鳴ってランガをベッドに押し倒した。このガッツリスケベ、と揶揄ったら「ムッツリよりマシだよ」なんて言い返されてぐうの音も出なかった。ホントどうしようもねえな俺らって思いながら、二人でさんざんシーツを乱しまくった。おかげで見るも無残な酷い有様だ。
「お前も早く着替えろって……いやその前に顔洗ってこい。エッチしてましたって思いっきり顔に書いてあんぞ」
「したじゃん。二回も出して、おれのことあんな好きにしといて、終わったらさっさと帰るんだ」
——非道い男だな。聞き捨てならない台詞に、暦は顔を真っ赤にした。
「おまッ、ランガ!一回だけつったのに抜くなってそのまま上に乗っかってきたの、お前だろ~が!なんで俺が好き勝手したみたいになってんだよ!この場合どっちかつーと、おま」
「ただいま~」
玄関先で馳河家の母親の呑気な声がした。慌てて体を離して、何食わぬ顔で部屋から出た暦が「あ、お邪魔してます」といかにも平静を装って挨拶している間に、ランガは素早く窓を開けて換気して、火照った顔に外のつめたい空気を当ててから、五分後には着替えを済ませてこちらも素知らぬ顔で母親と並んで玄関先で暦を見送った。
「また明日な」
「うん、じゃあね」
ひらひら手を振りながら、ぐちゃぐちゃのシーツは朝イチで洗濯機に突っ込んで回しておこう、とランガは算段した。気付いた母親に「思春期だもんね」と生ぬるい笑顔を向けられることくらいは耐えなければ。
「レキ君おやすみなさ~い」
歯を見せて笑う暦の、ずいぶんスッキリした顔を見て「いい気なもんだな」と思わずにいられなかった。
……こっちは腹の奥が、まだ疼いてるのに。
赤点補習の暦を待って昇降口で一人、ボケっと突っ立っていた時だった。馳河くん、という遠慮がちな声は耳を素通りした。ややあって今度は少しばかり大きめの声で「ランガくん」と呼ばれて、それでやっと振り向いた。
「……ごめん、何?」
暦の中学からの同級生で、バレー部で、ジャッジによれば”けっこーある”胸の、暦のことをずっといいなと思ってたらしい件の彼女(名前は失念した)はおれを見上げると、ほんの少しだけ逡巡する素振りを見せた。
「あのね。……喜屋武の好きな子って誰か知ってたら、教えてくれないかな?」
まさかそんなことを聞かれるとは思いもしなかったので、おれはちょっと動揺して「知らないよ」と答えた。そっけ無さ過ぎたかな。彼女は奥二重のまるい目をぱちりと音がするほど大きく見開いた。
「あんなに仲いいのに知らないの?そういう話しないの?」
余計なお世話だ、と言いかけて、なんとかやり過ごした。
「好きなタイプなら前に聞いたことあるかな」
え、どんな?と喰い付いてきたので、おれは流れでよく知らない女子におれの知る限りの暦好みの女の子の話をする羽目になった。
——色白で、細身でスラッとしてて、腰まで届くサラサラの長い髪、膝くらいまでの上品な白いワンピースが似合う、いわゆる「清楚な女の子」を絵に描いたみたいな。
おれは去年の夏、ドンピシャの子を船上でナンパしようとして失敗した暦を思い出しながら、目の前でみるみるうちにうな垂れた彼女が「……真逆かあ」と小さくつぶやいたのを聞いた。
踵を返した頼りない背中に「でもあいつ胸の大きい子は例外なく好きだよ」と言ってあげなかったことに関しては、少しも悪いとは思わなかった。だってどう考えてもデリカシーに欠けてるし、それだけはどう頑張ってもおれに勝ち目がないから。
急になんだか色んなことに嫌気がさして、おれは暦を待たずに校門を出た。罪悪感だったのかもしれない。もしくは自己嫌悪か。だから狙われたのかもしれない。
通りの信号が青になって、おもむろに一歩足を踏み出した瞬間、
「お幸せですか?」
その女が声をかけてきたのだ。
艶の無い黒髪を後ろで一つに束ねて、薄いピンクのパーカーを羽織った痩せた女は、いつの間に背後に立っていたのか、まるきり存在感がないと言ってよかった。フードに覆われた顔は俯いているため表情こそ見えないが、病的なほどに青白い肌をしていることだけはわかった。ランガはさも面倒くさいものを見るような、うろんな視線を女に向けた。——信号、青なんだけどな。
「おれに言ってるの?」
頷きもせず、女はふたたび「お幸せですか?」と繰り返した。こっちの質問に答える気はないのか、と思うと幾らか腹立たしい気もしたが、ならば答える義理もないと判断して無視することにした。振り切って横断歩道を渡ろうとした腕が突然、後ろから強い力で掴まれた。
「幸せだよね?」
女の口調が変わった。鋭い爪が生地ごと肌に食い込む。女とは思えない異様な力に、おれは本能で「やばい」と感じた。
「……あたしはこんなに不幸なのに」
おれの腕を掴んだまま、俯いて念仏を口の中でもごもご唱えるような声で「どうして?」女は独り言を繰り返した。あんまり不気味なのと地味に痛いのとで、おれはとにかくこの場から逃げ出そうと考えた。何だかわからないけど多分、ここに居ちゃいけない。咄嗟に「離してください」と叫んで、掴まれた腕をおもいっきり引いた。
ら、ぐるん!と女の顔が真上を向いた。有り得ない角度で。
「イイナ」
あ、この人、黒目しかない。思うと同時に暗闇に取り込まれた。真っ黒な穴の中に吸い込まれるみたいに。
気が付いたら暦の家の前だった。
低い石垣で囲まれた赤瓦の屋根、目隠しのヒンプン、門の前に並んだ二体のシーサー。庭先で真っ赤に花咲く鮮やかなデイゴ。すっかり見慣れたそれらの風景をどこか呆けたまま見詰めながら、ランガは「どうしてここに居るんだっけ」と考えた。
——おれ、いつの間にここまで歩いて、いやそもそも歩いてきたんだっけか?だってついさっきまで学校に……そうだ、信号が変わってその時、後ろから誰かに……
「あら」
聞き慣れた声がして振り向くと、暦の母親が玄関から出てきたところだった。いつだって、そこに居るだけで周りを明るくさせる、陽だまりみたいな人だ。柔らかいその口調から優しさが滲み出ているような。常に口もとに笑みを絶やさないこの女性を、暦の母親だからという理由からだけではなく、ランガはとても好きだった。喜屋武家の人間はみな優しくて、暦の親友であるランガに対して深い愛情を持って接してくれる。いつだって。だから、
「おばさん、あの」
「なんのご用?レキなら部屋に居るけど、邪魔しちゃだめよ」
どこか突き放すような態度に面食らって、ランガは思わず言葉を飲み込んだ。
「、じゃま……?」
「悪いけど今日は帰った方がいいわ。あの子にもいろいろ都合があるんだから」
(ランガくん、いらっしゃい。レキはまだ帰ってないけど、上がって待っててちょうだい。あとでおやつ持って行くわね。そうだ、晩ごはんもウチで食べていくでしょ?遠慮しないで、賑やかで嬉しいわ。今日の献立はねえ……)
用は済んだとばかりに、暦の母親はさっさと引っ込んでしまった。ランガは呆然としてその場に立ち尽くした。名前を呼ばれもしなかったのは初めてだった。
パタパタと賑やかな足音を立てて、双子の小さな妹たちが庭を走り抜けた。ランガの足もとを通り過ぎる一瞬、見上げてきた二人とまともに目が合った。兄によく似た少し釣り気味の大きな四つの瞳が、知らない人間を警戒するように素早く瞬いた。健康的な赤い頬に不似合いな猜疑心・疑念・疑心といったものを隙間なくべったり貼り付けて、双子は互いに顔を見合わせると、ランガを振り切るようにもと来た方へ一目散に駆けていった。
(ガンガ、絵ほんよんで。ガンガ、いっしょにゴハン食びる?ちひろがおふろにアヒルさんうかべてあげる。ガンガどうしてお目めが青いの?ナナカおにいちゃんだーい好き。えっとね、おかーさんと、おとーさんと、おばーちゃんと、おねーちゃんのつぎに、ガンガもすき。……ほんとはね、おにいちゃんのつぎなの。ナイショだよ……)
玄関から上がることは躊躇われたので、鍵のかかっていない縁側から滑り込んだ。夜中に忍び込む時、いつもそうしているように。足音を立てないようつま先立ちで慎重に廊下を進み、台所の前を通りかかった時、中から暦の母親と、幼い子どもたちの声が聞こえてきた。
——おにーちゃん、あそべないの?——じゃましちゃだめよ。——おにわに背ぇ高のっぽがいたの。——お兄ちゃんの知り合いよ。——おともだちなの?あのひとも?——あの人って?——おにーちゃんのおへやに、知らないおんなのこ……
扉は閉ざされていた。何度言っても家族が自由に入ってくるからもう開けっ放しにしてる、と苦笑しながら言っていた彼を思いだす。扉の傍で息をひそめて耳を澄ませると、途切れ途切れに聞こえてくる声があった。細くて高い、夏の終わりに死にかけた鈴虫のような。それがどういう意味を持つものかを理解したランガはぎくりと肩を強張らせた。
(そんなはずないだろ)
震える手で扉を開ける。直後に視界に入ってきた光景に、体が凍り付いた。
「……んだよ、勝手に入ってくんなよ」
ベッドの上で上体を起こした暦の肩越しに、濃い茶色の髪が揺れた。前下がりのボブ。隣のクラス。バレー部。暦とは中学からの同級生……。
「やだ、見られちゃったじゃん」
ランガの姿を見て、彼女は肩をすくめると思わせぶりに前髪を掻き上げた。しっとり汗ばんだ肌が、前が大きく開いたブラウスから覗いている。豊かなまるい膨らみが、暦の薄い腹筋の少し上、日焼けした胸筋のあたりに押し付けられているのが見えた。
「レキ、……どうして?」
唇がわななく。言葉が出てこない。こんなものは本当じゃない。こんなことがあるはずがない。だって暦は確かに言ってた、俺たちはそういうんじゃない、って。彼女に対してはっきり言ってた、ごめんな、って。
おれだけが知ってる。その謝罪の意味を。
「どうしてって」
暦が彼女の耳に指を引っ掛けて髪を梳いた。その仕草には見覚えがあった。いつも、終わった後でいつも、疲れ果てて荒い息を吐くランガにしてくれることだった。ありがとな、と労うように。この、硬いばっかりの体のすべてを愛おしむように。
「俺、もともと女の子が好きだからさ」
——柔らかいし、ちゃんと濡れててあったかいし。準備も面倒くさくないし、入れてすぐ気持ちよくなれるし。お前だってそんなのとっくに、知ってるだろ?
女が煽るように彼の首筋に齧り付いた。あまりの不快感に喉の奥が焼け付きそうになりながら、ランガは拒否反応で痙攣し始めた目蓋を必死でこじあける。だって受け入れられるはずがない。こんなもの、こんな現実、……いやこれは現実なのか?そもそもレキがおれにこんな仕打ちをするなんてあり得るだろうか?あんなにもおれを好きでいてくれる人が。自惚れなんかじゃなくて、おれはレキが本当に好きな相手にしか見せない表情と、大きすぎる恋情をぶつけた時の、火傷しそうなほどの熱さを知ってる。時折り感じるおまえの視線が、おれにどんな感情を向けているのか、本当はおれをどうしてやりたいと思ってるのか、レキ、おれちゃんと知ってるんだよ。そう、ならこれはやっぱり現実じゃない。夢、それも最大級の悪夢だ。これはきっと意地の悪い誰かによる、最低で最悪な、この上ない嫌がらせなのだ。
ランガはもういちど暦の姿を見詰めた。そこでようやく、先程から一度たりとも彼と目が合っていないことに気付いた。さらに注意深く目を凝らして、腕の中の女の髪が先程よりも明らかに長く、徐々に黒く変わり始めていることにも気が付いた。途端にぶわりと肌が粟立つ。嫉妬と羨望、妬みと敵意、……激しい憎悪。
顔を上げた女の視線がこちらを向いた。その瞳は真っ黒だった。
オ シ ア ワ セ デ ス カ ?
黒い大きな穴がブラックホールのように開いて、ランガをふたたび取り込んだ。
目を開けた時、視界は真っ赤だった。もとい、真っ黄色だった。間違いなくそのどちらもが目に飛び込んできたのだ。
「ゃ、すんません、コイツこんなとこで寝ちまって、あの怪我とか病気じゃないみたいなんで、はい、スイマセン」
片手で後頭部を掻きながら、道行く人々に頭を下げている姿が見えた。音響信号のピヨ!という甲高い音がやけに間近に聞こえる。それでようやく、ランガは自分が横断歩道の手前で仰向けに横たわっていることに気が付いた。しゃがみ込んだ暦の膝の上で、もう片方の腕に背中をしっかり支えられている。寝癖で跳ね放題の赤い髪と、短ランに重ねたいちばんお気に入りのパーカー。好きな人の色。視線を感じて振り向いた暦と、すぐにばちん!と目が合った。
「あっ起きた!ランガお前、なんでこんな往来で寝てんだよ!俺ゲタ箱んとこで待ってろって言ったよな?先に帰るなら一言メッセくらい寄越せっての!てかさっきまでスゲー人だかりだったん……」
そこで暦は言葉を途切れさせた。ランガが首に腕を回してきたからだ。
「ぅおい!ちょっ待っラン、だからお前こんなとこでなあ!ホラ見られてるっておい……聞いてる?」
好きな人の匂いがする。大好きな暦の匂いがする。
「、レキ……」
これが現実だということを確かめたくて、ためらわず顔を寄せた。好きなひとの唇の味がした。
どうやってここまで辿り着いたのかあんまりよく覚えていない。途中からボードに乗ったような気もする。ずっと腕を引かれて走っていたような気もする。ただ、前を行く暦の耳たぶから汗ばんだ首筋までが真っ赤に染まっていたことだけは、やたら鮮明に覚えている。
パークの外れにある公衆トイレに入ったのはこれが初めてだった。普段からあまり使用する人が居ない所為か、それともたまたま清掃日だったのか、床や壁のそこ此処がひび割れているほどには古い建物の割に、中はそれなりに清潔と言っても良かった。とはいえ二人ともかなり焦っていたので、隅々まで観察している暇なんて一切なかったのだが。
「っはぁ、はッ、ぁ、ムぐ」
お互いを先に押し込むように一つしかない狭い個室に雪崩れ込んで、扉が閉まるのを待てずに夢中でキスした。口を開けたらすぐに舌をねじ込まれて、ろくすっぽ息も出来ない。べろを滅茶苦茶に絡めながら、壁に背中を押し付けられて、お返しにこちらも背中をきつく抱き締める。本来ならばこんな不衛生な場所、到底その気になんてなれる筈がなかった。けれど、今のランガにはそんなものはどうでもよかった。何でも良かった。とにかく一秒でも早く、暦と二人きりになれるところなら何処でもよかった。最初パークに着いた時、外が薄暗くて辺りに誰も居ないのをいいことに、物影に隠れるようにしてキスしてるうちお互いどうしようもなく興奮してしまった。上を半端に脱がされてピンピンに立ったランガの乳首を一心不乱に舐め回していた暦が、途中でハッと我に返って「パークは神聖な場所だからセックスは駄目だ」とか言い出した時は思わず股間を蹴り上げそうになった。ここまで来て、そんなおっ起てておいて、おれをこんなヨダレまみれにしておいて、今さらしないって選択肢があるわけないだろこのバカ!涙目で怒鳴り散らしたランガの手を引いて、暦がずんずん進んでいく先に見えたこの貧相な公衆トイレが、二人にはまるで神様がくれたお城、それも外界から遮断された堅固な城塞のように見えた。
「レキ、もう大っきい」
ズボンの前は既にきつく張っていて、隙間なくぴったりくっ付いたランガのお腹にごりごり当たっていた。すぐに布越しに指で掴んで上下にゴシゴシ扱いてやると、キスの途中で重なったままの暦の口から「うぁっ」と声が漏れた。
「ッ待てラン、あんま強くすんな、出るッ」
「ヤだ!我慢して」
着けてあげる、としゃがんでズボンを下ろした瞬間、目の前にぶるん!と隆起したペニスが飛び出した。顔前に突き出されたそこに、ランガは思わず釘付けになった。
「ぁ、すご……」
舐めたいと言う前に、唇にプニュ、と濡れた先端が押し付けられた。考えるより早く、かぱりと縦に口を開いた。
上顎と舌でやさしく挟むように太いところを咥えて、じゅぽ、ジュポッ!とわざと厭らしい水音を立てる。時折り緩急をつけながら出し入れするついでに指で竿を強く扱いてやると、袋がぱんぱんに膨らんで熱を持っているのがわかった。唇で皮をみょんと引っ張るようにして、手の中でやわやわ揉んでやると、暦は快感に耐えるように歯を食いしばって眉を寄せた。
「うぅ、タマ気持ちい、すげ」
「ンぐ、んッ、ンッ、ぶぽ、」
そのうちに膨らんだ先端からしょっぱい汁が出てきて、彼の限界が近いことを知った。反り返った暦のペニスから唇をちゅぽんと離して、べたべたの口もとを拭うこともしないで、ランガは自分もズボンを下ろした。途中で布が引っ掛かって焦る。
「……パンツ糸ひーてる」
真顔でつぶやいた暦を「うるさい、」と一蹴して、常備していたゴムの袋を開けた。いい加減慣れたはずなのに、さっきからずっと下半身に粘ついた視線を感じて、いまいち作業に集中できない。見てないで協力して、と顔を上げて睨め付けると、ぐいと腕を取られた。
「そんまま入れたい」
指先から床に落ちたゴムのパッケージから、とろりとゼリー状の潤滑剤がこぼれた。拾うつもりも消え失せて、ランガは言われるがまま後ろを向いてタンクにしがみ付いた。暦がこういうことを言うのは、よっぽど気分が乗っている時だけだ。そういう時、ランガは決して抵抗しない。興奮と悦楽で歪んだ、大好きな暦の雄の顔が見られるから。いつもはやさしい暦が、自分をモノみたいに扱う瞬間も大好きだから。どうしても今、暦に。……現実の暦に、求められたかった。
便座に跨る形で、腰を高く上げてふぅっと息を吐いた。すぐに後ろから指が入ってくる。工具の使い過ぎで少し変形した人差し指と、節が太い中指が、同時にヌッと中に潜り込んだ。
「……やらけぇ。また一人で後ろ弄ってたんだろ、ほんとエロいやつだな」
それは本当のことだから否定しない。でも、レキ、おまえにだけは言われたくない。
「レキが、おれをこんなカラダにしたんだよ」
——だから責任取って、ずっとおれのこと好きでいて。今だけじゃなくて。
古い便座が音を立てて軋む。グチ、ぬちょ、ブチョッ!辺りが静かな所為でよけいに、耳を塞ぎたくなるような水音が嫌というほど壁に反響する。
「あっぁっあッ」
後ろから容赦なく突き込まれて、一度目にたっぷり出された精液が、中で掻き回されて泡立っているのがわかる。暦は当たり前のようにおれの中に出した。ちょっと前までは土下座する勢いで謝ってくるぐらいには、それって大変なことだったはずなのに。
「ハッハァッハッ、はぁっ気持ちい、はッ」
耳に荒い息を吹き込まれながら、ああ絶対おれのお尻ちょっと凹んでる、と蓋の上に乗り上げて前後に激しく揺れながらランガは思った。きつく腰を掴まれて、ほとんど尻に性器をぶつけるような激しいセックス。硬いペニスの先が奥をぐっちょぐちょ穿るのが死ぬほど気持ちよくて、知らないうちに舌が突き出てしまう。……ああ恥ずかしい、こんな、躾のできてない犬みたいな。
「うぁッ締まる、ぬるぬる、滑るッ」
「んん、ンッ、あぁんそこイイ、もっと突いてぇ」
すぐにガツン!と気持ちいいところを抉られた。欲しいところにダイレクトにきた衝撃と強烈な快感で、おれは我慢できずにまたびゅっ!と射精した。先に二回イって便座と床を汚した所為で、さっき途中でゴムを着けられた。おれだけなんてずるい、と抗議すると「だってお前どこ飛ばすかわかんねーもん」と笑われて、羞恥で顔が真っ赤になった。
「あ~ッ……はぁ、……」
ぎゅっと目を瞑って、いまだ奥でじんじん燻ったままの快感を散らそうと、大きく息を吐いた。
「フ、ふッ、なあ、俺も出していい?もっかい中に出していい?」
さっき出した分はもうほとんど暦の太いカリ首で外に掻き出されている。オトコの本能でそうするのだとわかっていても、せっかく出してもらった暦の精液を暦自身に取り上げられたような気がして悲しかった。愛された証拠が欲しいのに!そんな馬鹿なことを思ってから、あ今ちょっと頭がおかしくなってるな、とやたら冷静に考えたりもした。直後に口から出た言葉はあいかわらず馬鹿みたいだったけれど。
「ッいい、いいよレキ出して、おれのナカに、いっぱいだしてぇ」
とつぜん暦が後ろから片手で口を塞いだ。驚いたランガが顔だけで振り向くと、個室の外、トイレの入り口あたりから誰かの話し声が聞こえた。
「悪ィすぐ行く。いま便所、いや間に合うって大丈夫」
おそらくはスマホで誰かと通話しながら、男はチャックを下ろして小便器で用を足し始めた。汚ねーな!という通話相手の声が聞こえるほどに辺りは静かだ。レバーを引いて水を流して、そこで男は個室のドアが閉まっていることに初めて気が付いたようだった。
「ヤベ、人いたわ。スイマセン……って、あれ」
そこでランガはぎくりと固まった。さっき床の上に落としたスキンのパッケージが、ドアと床の隙間からまる見えだった。
「……、ヤッてる。いや個室。マジかよこんなとこで」
おそるおそる見上げると、暦はシッ!と人差し指を立てる仕草をした。声出すなよ、という唇の動きに頷いて、ランガは先程からいいところに切っ先を当てられたままのペニスを刺激しないよう、そろそろと前に向き直った。と、前触れなく口に何かを嚙まされた。
——なに?
雑に折りたたまれた白い布の、口から出ている右端の部分が見えた。チューリップの赤い刺繍。
(ナナカのはんかち、おかーさんがチクチクしたの。ちひろのはチョウチョで、ナナカのはお花……)
ランガは背徳感と興奮で体じゅうの血が沸騰するのを感じた。かわいい妹、おにいちゃんを大好きないとけない子、ああ喜屋武家の柔軟剤の匂いがする。レキ、レキ、おまえってやつはホントに……。
ランガは涙目でハンカチを咥えたまま、襲い来る絶頂の衝動を我慢できずにキュウ~ッ!と思いきり後ろを締め付けた。
「、うっ」
堪らず暦が声を漏らした。個室の外で、男が息を飲んだのがわかった。間髪入れず、腰の動きが再開される。もう何がどうでも良くなったらしい暦が、完全におれの中で二度目の射精をするための。
「——ッ、——ッ!」
どちゅ!バチュン!ひどい音が響く。ああ熱い。熱くて硬いのがおれの中に入って、ズコズコ擦って、出ていく。遠慮の欠片もなく。閉じられた個室の中でおれたちがヤッてることなんてもう、とっくにバレてる。外からは床に落ちてるゴムと、暦の足元しか見えてないだろうから、相手が男だってことまではわからないと思うけど、バレようが罵られようが、もう何がなんでもどうでも良い。ただ、ただ、気持ちいい。もういちど死ぬほど気持ちよくなりたい。お腹の中にもいっかい、レキの精子が欲しい。
「ハッ、ハッ、はぁっ、ッ出る、でる、締めて」
中はずっときゅんきゅん収縮している筈なのにまだ足りないのか、暦はめちゃくちゃに腰を振りながら、ランガのもはや痙攣している柔い襞に性器をぐりぐり押し付けた。トイレタンクを壊れるほど抱きしめて、ランガは自分の中でいきり立った暦のペニスを嫌というほど締め上げた。どちゅん!と最後にいちばん奥を抉られた時、快感がランガの脊髄から脳天を突き抜けた。直後にビュルビュル~ッ!と勢いよく中に放たれて、恍惚として顔を上げた先、目に古い天井が映った。しかし黒目の部分が上に、上にいってしまう所為で視界には何も入らなかった。白い喉を反らせてランガは声にならない声を上げた。ほとんど泣き叫ぶような。実際には噛み締めたハンカチのせいで、女の子が絶頂する時のような高い声が出ていた。
「ぁああ~~~~~………ン、ン、ん…………ぁ、」
……本当なら女の子、たとえば隣のクラスの、昔からずっと好きでいてくれた可愛い女の子の中に出される筈だった暦の精子。こんなに元気なのに誰の子宮にもたどり着けずに、おれの中に出されて行き着くところもなく動き回ってそのうち排泄されて出て行くだけ。なんて、悲しいほどに無意味だ。何の意味も持たないこの愛の証拠を、おれは誰にも渡すもんか。レキの匂いと、味と、熱さを知っているのは世界中でおれだけ。おれだけなんだ。ざまあみろ。
足音が遠ざかる。男が小声で喋っている声がする。——最後まで聞いちゃったよ。やべーちょっと起った、だってスゲー声デカイし。いや無理無理、気まずいだろ戻るって!にしてもこんなとこにカップルで来やがって、くそッリア充め……。
足音と声が完全に聞こえなくなっても、二人は便座の上で密着したままだった。腹の奥がじんと痺れている。まだしばらく余韻に浸っていたかったけれど、そのうち中からどろりと垂れてきたものの感触に、ランガはブルッと身震いした。
「あ、ン」
ヌポッと引き抜かれて、とろとろ流れ出てくる精子を後ろからペーパーで拭われて、ついでに萎えた性器に被せられたままのスキンも外された。タプタプの液だまりを逆さにして中身を便器に流して、汚れたペーパーも一緒くたに、暦はさっさとレバーを引いた。
「……後始末が便利だね」
ざあっと流れていく光景を見ながら、ランガは自分で「またどうでもいいこと言っちゃったな」と思った。ランガを向かい合わせに座らせて、暦は彼の耳に汗で幾分しっとりした髪の毛を引っ掛けた。そしてそのまま指で髪を梳きながら「ありがとな」と笑った。
「好きだよ」
うん、と頷いた。
暦の気持ちは誰も知らなくていい。この世でおれだけが知ってればそれでいい。
「どうしてあんなとこで寝てたんだよ?」
口いっぱいに唐揚げを頬張ったまま、ランガは首を傾げた。
「ランガくんご飯のお代わりは?もう少しで第三弾が揚がるからね!」
台所から元気な声が聞こえてきた。双子の妹たちがランガの両隣に座って、中身がほとんど零れたお茶やぐちゃぐちゃのサラダを「あいどうじょ!」してくれた。ありがとう、うれしいな。ニコニコ笑って受け取ると、暦の隣ですぐ下の妹が「千日と七日がメンクイに育っちゃう……」と嘆いた。
喜屋武家のリビングで夕食をご馳走になっている時に、正面の席の暦にふとそんなことを尋ねられて、ランガは「ぜんぜん覚えてない」と首を横に振った。
「レキを待ってたんだけど、気が付いたらレキの家の前に……んん?違うな。なんかヘンな夢みた気もするけど」
「夢ってどんな?」
ランガは黙って首を横に振った。「わかんない。けど、いやな夢だった」
「ガンガこわいゆめみたの?」
「おばけでたの?こわ~い!」
いや流石にお化けはねえだろ、と笑いながらも冷や汗を掻いている暦を見て、つられてランガも笑った。
「かわいそうにねえ」
ふと、テレビの前に座っていた暦の祖母が、まだ若いのにねえ、と手を合わせた。ちらりと目線をやったニュース画面の中で、一人の少女の姿が映し出された。事故に遭ったという場所には見覚えがあった。写真の中のやたら黒いその瞳と一瞬間、目が合ったような気がしたが、ランガはすぐに意識から外した。なんとなく、忘れてしまった方がいいと思った。
「ガンガ絵ほんよんで」
三番目の妹は、舌足らずにそう言いながら脇に本を抱えて部屋に入ってきた。
「こらナナカ、もう寝る時間だろ」
ベッドの上で雑誌から顔を上げた暦が、言い聞かせるように諭した。とたんに涙目になった子どもに、畳に敷かれた客用布団に寝そべってスマホで動画を見ていたランガは、体を起こして「おいで」と両手を広げた。
「おいランガ、あんま甘やかすなよ。朝起きられなくなって困るのはコイツなんだから」
「すぐに終わるよ。……読み終わったらお部屋に戻ろうね」
音がしそうなほど勢いよく頭を縦に振って、おさない子はいそいそとランガの膝に座って本を開いた。
「……悪い魔法使いは居なくなって、世界にはふたたび平和が訪れました。お姫さまは王子さまと、お城でいつまでもいつまでも、末永く幸せに暮らしました」
眠たい目を何度も擦り、うとうと船を漕ぎながら、子どもは殆ど眠っているようだった。
「お、寝たか?」
「うん」
ランガは本を閉じて、小さな体を抱き上げるべく脇の下にそっと腕を入れた。
「小さい子って、何でこんなにあったかいのかな」
「もともと体温が高いからなあ」
両手が塞がっているので暦に扉を開けてもらうと、起こさないようにそろりと部屋の外に出た。寝顔もやっぱり似てるなあ、と微笑ましく見つめながら、薄暗い廊下を進む。家の中はしんと静まり返っていた。幾らも経たずに双子の部屋の前にたどり着いた時、ふと、閉じられていた瞳が音もなく開いてランガを見た。七日はやたらはっきりとした口調でこう問いかけた。
「しあわせなの?」
ランガは一瞬目を見開いて、それから笑って頷いた。
「幸せだよ」
だから邪魔しないで。