ここいらじゃ見かけない良い女がいる。
馬小屋を掃除しながら男は視線を泳がせた。黒くて艶やかな髪を肩を過ぎるくらいまで垂らして、吊り上がった大きな目が印象的な若い女だった。歳は十四、五くらいだろうか。女だてらに商いをしているらしく、大きな箱笈を担いでいるのに少しも重たそうに見えない。このご時世もあってか頼もしいことだ。それにしたって腰も脚もずいぶんと細い。ちょいと行って荷物持ちでもしてやろうか。そのついでに名前も聞けたらいいな。ああいう働き者の女は嫁にするのにぴったりだ。しかもあれだけの別嬪ときちゃあ。
「腰痛によく効く膏薬だよぉ。腹痛にてきめんの煎じ薬もあるよぉ」
女は高い声を張り上げて客を呼び込んでいた。物珍しさからか、あっという間に人だかりができる。男は使い古した箒を馬小屋の壁に立て掛けて、自身も客を装ってそうっと近付いた。
「膏薬をいただこうかねぇ。畑仕事が辛くてねえ」
「うちの人、よく腹を下すんだよ。これはいつ飲むんだい?」
「切り傷に効く薬はないの?」
次々と掛けられる声に、女は慣れた様子でじゃあまず三日分ね、効き目が切れたらまた来てくださいな。朝と晩ね、どっちも飯の前ですよ。手持ちにはないから、次来たとき持ってくるわね。といっぺんにはきはき答えた。
「……ええと、きみ。一人で大変そうだから俺が手伝――」
男が声をかけたのと殆ど同時に、すぐ後ろから「きり子ちゃんじゃないか、薬屋さんの奥さんの」と年嵩の女の声がした。
――奥さん?
「あらぁ、染物屋の奥さん!お久しぶりですぅ」
ぱっと顔を上げて、若い女はさも気安げに応えたが、男にはそれがどこか焦っているように見えた。
「最近見ないから心配してたのよ。今日はどうしたの、こんな遠くまで来て。先生はご一緒じゃないの?」
「今、新しい薬の調合に取り掛かってて、ちょっと遠方に。それであたしが代わりに売りに出てるんですぅ」
「そんならまずうちの近所で売って頂戴よ!今日はたまたまお届け物に来てて良かったわあ」
ここの先生の薬はほんとによく効くんだ、うちの旦那は怪我があっという間に治ったし、隣の婆さまは腰痛知らずだ、と年嵩の女が声高に話したこともあって、薬は飛ぶように売れた。
「はぁい、これお釣り。次の方は煎じ薬を二日分ね。はいお待たせしました、そちらの方は――」
そこで女はハッと息を呑んだ。いつの間に潜んでいたのか、袈裟を深く被り、黒い口布で顔を覆った男が、低い声で「この間のお代です」と小さな包みを差し出した。
「……ありがとう。またよろしくねぇ」
男は包みを渡すとそそくさとその場を離れたので、誰も気にするものは無かった。客の一人が「ツケで売ってくれるの?」と尋ねると、女は困ったように眉を下げて「ご近所のよしみでさぁ」と笑った。
すっかり話しかける術を失って、馬屋の掃除番の男は目当ての薬を買えてご機嫌の女主人に「あの娘っこ、」と思わず声を掛けた。
「ずいぶん若いけど、もう旦那が居るのかい」
女は怪訝な顔で振り向くと、すぐに「ああ」と合点がいったように頷いた。
「そうだよ、それも今どきなかなか居ない美丈夫だ」
ちょっかい出すんじゃないよ兄さん、とついでに釘を刺された。薬屋の女房は、何やら手の中に広げた小さな走り書きを見て、傍目からもわかるくらいにぱあっと晴れやかな笑みを浮かべた。
「先生はいつお戻りになるんだい」
「今夜お戻りになるって今さっき便りがあったの」
「あらそう!良かったじゃないの、そりゃあ何か精のつくもの食べさせんと。先生はしょっちゅう家を空けなさるから、なかなか子作りもままならんだろうて心配してたんだよ」
「いやだ奥さん、そんなこと大声で!」
若い女は頬を真っ赤にして抗議した。周りに居た客がそれを見てワッハ、ハハ、と笑う。
「でも先生がお戻りになった翌日は、あんた家から出てこないじゃないの。その日だけ先生が魚だの大根だの、大っきな図体でちまちま買い物なさってさあ!もう可笑しいったらないのよ」
きゃはは、と女が高い声で笑う。薬売りの女は耳まで真っ赤に染めて口をぱくぱくさせていた。可愛いらしいこと、早うにやや子が出来ればいいねえ、と次々に声をかける客を尻目に、掃除番の男は一向に面白くなかった。
「何でぇ、こんな娘っこを嫁にするなんてその旦那、さぞかし助平親父に違いねえ」
男のぼやきを拾った地獄耳らしい若妻は、すぐさま顔を上げてキッと男を睨み付けた。
「うちの人を侮辱しないで頂戴」
男は怯んで、たちまち冷や汗を掻いた。女はフン、とそっぽを向いて店仕舞いを始めた。染物屋の女主人が、憐れむように男に声を掛けた。
「あんた、馬鹿だねえ。きり子ちゃんは旦那様に首ったけなんだから」
***
潮時だな、と衝立の向こうで天鬼が呟いた。
正座して今日の報告を済ませたきり丸は、はっと顔を上げて「では捨てますか」とだけ尋ねた。
「いや、このままで良い。当初から訳ありと知って接してきた者達だ。我らが突然消えても足取りを追うようなことはないだろう」
きり丸は頷いた。なけなしの銭で買った家財道具、頂きものの茶碗や湯呑、前の住人が残していった古びた寝具。この古い小さな家にあるものはそれですべてだ。この一年で近隣住民とはかなり親しくなった。いつも野菜を届けてくれる老夫婦、何かと世話を焼いてくれる染物店の主人と女房。お人好しの農夫、元気で可愛い村の子どもたち。皆んなともう会うこともないと思えば寂しい気もする。けれどそれだけだ。次の場所に移り住んで暮らすうち、此処での記憶は薄れて、やがて忘れてゆくのだ。
いつか暮らした懐かしい長屋の、親切で温かかったあの人たちのように。
「一年と少し経っても子が出来ないとなれば流石に怪しまれよう……二、三日のうちに立つ」
ふたたび頷いて、きり丸はそのまま顔を伏せた。別れが悲しいのではなかった。もはやそういったものに欠片も心が動かないことが悲しいのだった。
射し込む一筋の光と鳥のさえずりで、夜が明けたことを知る。天鬼は視線を落として腕の中で眠る子どもを見詰めた。子どもは静かな寝息を立てており、まだ夢の中に居るようだった。その背に巻き付けるようにした腕にぐっと力を込める。子どもは「んん、」と眉をひそめて僅かに身じろいだ。
(ぼく、もう体の感覚が、ありません)
この古い家で情を交わす最後の夜だった。ぶすぶすと燻って焦げ臭い感情が腹の奥に溜まって、一晩中離してやれなかった。喉が渇いたと懇願されて、口移しで水を含ませた。汗に濡れてびたりと重なっていた体を、ほんのわずかの間も離すことが耐え難かった。まったく可笑しな話だ。住処を移すことなど忍として珍しくもなく、それ自体にはなんの感慨もない。けれど、この家はやはり特異な場所であったのだ。ここで過ごした決して短くはない日々が、己にとって忘れ得ぬものとなっていたのかもしれなかった。
――ぼくの体から天鬼さんの匂いがする
ふと思い出して、天鬼は軽く息を吐いた。思い出す、一年と少し前。周りに怪しまれないよう夫婦者を装って二人で此処に移り住んだ、最初の夜のことを。
***
形だけで良いという天鬼の言葉に、きり丸は首を横に振った。
「世間を欺くための夫婦者なら、いずれ忍務に必要なことがあるかもしれないでしょう。いざという時に其処らへんの女の人を買うより、ぼくを使った方が手っ取り早いと思うんです」
不快な言葉が耳に入って、天鬼はぴくりと眉を動かした。
「使うとはどういう意味だ?」
きり丸は首を傾げて目の前の男を見た。
「……男でも、子どもなら女の人より具合がいいって」
鋭い殺気を感じて、きり丸はギクリと肩を震わせた。そこでようやく己が失言したらしいことに気が付いた。
「誰に言われた」
腹の底から響いてくるような低い声だった。きり丸は背中に冷たい汗が伝うのを感じながら、ほんの数年前の記憶を辿った。
「、昔……峠の茶屋で炊き出しがあって。そのとき居合わせたお客の一人に『お前は売らないのか』って聞かれたんです。そのときは意味がわからなくて。そしたら、『ちょっと楽しませてくれたら駄賃をやるぞ』って……それで、」
男の身体から獰猛な怒りが揺らめく蒸気のように立ち上った。蛇に見込まれた蛙のようになって、きり丸は俯いた。とても目を合わせられない。何かとんでもない間違いを犯しているような気がする。
「その人が、『お前は具合がいい』って……」
次の瞬間には組み伏せられていた。何が起こったのか理解できず、信じられないという目できり丸は男を見た。否、見ようとした。大きな手のひらが瞼を覆ったので、それは叶わなかった。視界を奪われたまま、きり丸はただ、我を忘れたように自分を蹂躙する男の身体の熱さと重みを感じた。何をされているのか全くわからないわけではなかったが、正直なところを言えばたいへん恐ろしく、おののき、怖気づいてもいた。しかし抵抗する気は最初からなかったので、目を閉じて受け入れようとした。この人がきっと自分に今の顔を見られたくないのだと、わかっていたのだ。けれど心と裏腹に体はかたく強張り、やがて男が途方もない無体を強いて侵入を試みた時、あまりの痛みにきり丸は悲鳴を上げた。
男が組み敷いた小さな体を覗き込むと、花を撒いたように散った鮮血が紛れもない事実を語っていた。子どもは純潔である。天鬼は蒼白となった。手ひどい方法で手折られかけた憐れな子は、消え入りそうな声で必死に言葉を紡いだ。
「、おまえはきっと具合がいいだろう、って。女みたいな顔もいい銭になるって。だから安売りするもんかって、あっかんべして逃げたんです。物乞いはしたけど、盗みとか身を売ることはダメだって教わったから。だから天鬼さん、ぼく……ぁ痛、」
後ろの引き攣るような痛みに、きり丸は目尻に涙を浮かべた。天鬼は咄嗟に顔を寄せ、あふれる涙の粒を吸い取った。
「っすまないことをした……どうか、許してくれ」
眉を下げて俯いた男の頬を両手で包んで上向かせると、ほとんど鼻先が触れるほど近いところで目が合った。こちらも今にも泣き出しそうなその顔を見て、きり丸は「この人こんな顔もするんだ」と、どこか見当違いな感動を覚えた。
「手当を……、湯を沸かしてくる」
そう言って立ち上がりかけたところで、ぐっと下から衣の裾を掴まれた。
「行かないで」
振り向くと上半身を起こしたきり丸が、必死の形相でこちらを見上げていた。
「、まだ起き上がるな」
ほとんどひったくるようにしてその手を取る。子どもは頬を摺り寄せて「どこにも行かないで」と祈るように呟いた。
「傍にいて。ぼくのそばに居てください。嬉しかったんです。あなたはきっとこんなこと、ぼく以外にしない。怖かったけど、痛かったけど、触ってもらえてうれしかった。だから形だけじゃなくて、ちゃんと役に立ちたい。ぼく、ぼく、天鬼さんのこと、大好きです……」
うすい小さな背中をきつく抱き締めると、首筋に齧り付いてきた。耳元で、もう一度やり直させてほしいと真心を込めて願い出ると、こそばゆいのか首を竦めたきり丸が小さく頷いた。
こんなふうに愛する人だったのか、と思った。
幾重にも折り重なった包みを一枚いちまい丁寧に解くように。先刻までの獰猛な怒りが爆発したかのような成りは身をひそめ、一転した。わずかの痛みを覚えることもなく、ただひどく甘い、あまりに深い快楽と陶酔にきり丸は溺れた。時間をかけ、美しく繊細に結ばれた飴細工がやがてどろどろと溶けるように、愛し尽くされ開かれた体がやがて緩やかに己のものではなくなっていくのを感じた。折り重なる分厚い体の重みと、温みと、意地でも離れようとしないぴたりと絡められた指先の力強さ。全身が弛緩して、揺すられるたびに口からは意味を成さない喘ぎが漏れた。男が耳にほとんど唇を押し当ててなにごとか囁くのにもはや何を言われているのかすらわからず、ただ「はい……」と吐息ともつかない声を出した。
腰から下の感覚はとうに無く、燃えるように熱いものが何度もなんども飽きず中を擦って我が物顔で出入りするのを許し続けた。
「ぁ、もう力が、入りません」
揺れる視界の中、きり丸は泣きながら訴えた。
「こんなんじゃ、天鬼さん、ちっとも気持ちよく、ないでしょう」
上下するうすい胸に埋めていた顔を、男が緩慢な動作で上げた。
「……いいや」
それだけ言うと、男はまた濡れた乳首を食んだ。言葉を発する間も惜しいと言わんばかりに。赤ん坊みたい、とぼんやりきり丸は思った。こんな貧相な胸をそんなに執拗に吸って、お乳も出ないのにむしゃぶりついて、てこでも離れないところなんてそっくりだ。ああ、でも、赤ん坊はそんなふうに厭らしく舌を使わないもの……。
「ん、ん、ん、」
律動が早まり、熟れた壁を細かく突かれ、何かが極まるような予感にへその下が内側からきゅうと絞られた。背筋を稲妻が走る。下腹部から湧き上がる痺れにも似た感覚に自然と喉が反り、歯を食いしばって涙目で天井を見上げる。今にも崩れそうな古い梁と、すのこの天井が見えた。
「んぅ――、」
息を詰めたと同時に、腹の上で男がぶるっと身震いした。繋がったままの場所がひくひく痙攣しているのを感じ、きり丸は力の入らないまぶたを必死でこじ開けた。常は端正なその顔が、今は眉を寄せて口を引き結び、隙間から息を漏らしてわずかに歪んでいる。それで、きり丸はこの行為が少なくともこの人に幾ばくかの快楽をもたらしたことを知った。瞬間、みぞおちの辺りがぞくぞくして涙が出た。
――ああ、天鬼さん、気持ち良かったんだ………
汗をたくさんかいた後のお風呂。働きづめでどろどろに疲れた夜に潜り込むふかふかのお布団。きり丸にとって気持ち良さとはそういうものだった。まだ幼い体には快楽の本当の意味はわからない。だからこそ、ただ嬉しい。
(ぼくの体で気持ち良くなってくれてうれしい)
さんざん出すものを出し切ってから、萎えているはずの男のものは最後の名残を惜しむかのように、うすい壁に何度もなんども擦り付けて、未練を残しつつずるりと抜け出ていった。
「ッあ、……ん」
みっちりと埋められていたものが居なくなって、喪失感と安堵感が混ぜこぜになる。失った質量を求めるように中がうごめいているのがわかる。ひどく恥ずかしい心地がして、きり丸は喘ぎあえぎ呼吸を乱した。うすく開いたままの唇につと無骨な指先が触れた。
「……大事ないか」
優しい声音だった。きり丸は頷く。男は続けて「どこも痛みはないか」と尋ねた。
「いいえ、いいえ。……ちっとも」
男は安堵したように息を吐いて、子どもの唾液で濡れた唇をゆるく吸った。驚いて目を真ん丸に見開くと、すげなく「閉じていなさい」と言われた。素直に瞼を閉じると、ついばむようにしてまた唇を吸われた。
これはきっと特別なことだ、ときり丸は確信した。天鬼さんはぼく以外にきっとこんなことしない。ぼくのぜんぶにあなたは触ってくれた、頭のてっぺんから足の爪の先まで。……ぼくの知らない体の中まで。
やがて夜がしらじらと明けるころ、夢とうつつを交互に行き来していた子どもがつぶやいた。
「ぼくの体から、天鬼さんの匂いがします……」
***
「やあ先生。お出かけですか」
畑仕事の手を止めて声をかけると、五軒隣に住む薬屋は軽く会釈をして寄越した。その横に若い女房の姿もあったので、農夫は「おや、めずらしいこともあるな」と思った。
「お揃いで今日はどちらへ?」
「六斎市までお薬を売りに行くんですぅ」
いつも通り女房の方が返事をした。無口な夫の代わりに村の住民と付き合いをしている若妻は、別嬪でしかも働き者と評判でつくづく羨ましい。
「そうかい、今日は八日だったな。ついでに櫛や簪なんか買ってもらうといいよ」
「やぁだ!ねぇ、お前さま」
ころころと鈴のような声で笑う女房とは正反対に、薬屋はにこりともせず無言で先に歩き出した。やれやれ愛想のない先生だ、と農夫は苦笑する。この村にやって来た当初から、ずいぶんあべこべな夫婦だと呆れたものだ。こんなに真逆の性格で、歳もだいぶ離れてるように見えるけど、上手くやっていけるのかなあなんてお節介にも心配していたのだが、隣に住んでいる婆様が言うには、なかなかどうして仲良くやっているらしい。近所の染物屋の女主人はもっとあけすけに「見ててご覧、あそこはすぐややが出来るわよ」なんて言っていたっけ。
(ああ見えて先生の方が、きりちゃんが居なけりゃ夜も日も明けないんだから)
ふと、もうすぐ刈入れの時期だから、薬屋夫婦が村にやってきて一年になることに思い至った。二人の間にややが出来た様子はない。まあ先生はしょっちゅう留守にされるし、なんたって奥さんは若いんだから、そんなに可愛いがってもらってるならじきに目出度い報告があるだろう。
「先生、またいつもの煎じ薬をお願いしますよ」
薬屋の背中に声を掛けると、やっぱり代わりに女房が「はぁい」と返事をした。二人が睦まじく並んで歩いていく姿を見たのは、それが最後になった。
道中、前を歩く男にふと「大事ないか」と尋ねられたので、思わず噴き出した。
「……なんだ」
「だって、あなたいつもそれを聞くから、可笑しくて」
まだ少しばかり掠れた声でそう言うと、薬屋の女房は夫の衣の裾を片手でそっと掴んだ。気付いた夫がその手を取って握ってやると、うれしそうに指を絡めてきた。初心な子どものように。
何人かの顔見知りとすれ違った。みなが当然のように頭を下げ、「不愛想な薬屋」と「若く快活な女房」に気さくに話しかけては、手を振って去っていく。また明日にも顔を見ると信じて疑わないからだ。
村外れのあの古い家に若い夫婦が戻ることは二度となく、彼らはたいそう心配することだろう。男たちはあちこち捜索するかもしれないし、女どもはその身を案じて悲しむだろう。しかし、秋が暮れ、冬が去り、季節が移り変わるうちに、やがてそんな夫婦は最初から居なかったかのように忘れ去られていくのだ。そうしているうちにきり丸は、もう誰の目にも子どもには見えなくなるだろう。よく仕込み、念入りに時間をかけて育てた甲斐あって、今ではたいそう役に立つ。
「ぼく、奥さん役、楽しかったです」
腕を絡めて歩きながらきり丸が言った。
「次は何のお仕事にしましょうか。薬屋は便利でしたけどもう使えないから、寺子屋の先生なんてどうでしょうか。天鬼さんはとっても物知りで頭がいいから、ぴったりじゃないかと思うんです。それで、ぼくはまた「先生の奥さん」です。子守りは得意だし、子どもたちの親ともきっと上手くやってみせますよ。もうじき十三になるし、化粧をすこぉし濃いめにしたら、今よりは大人びて見えるんじゃないかしら。ね、天鬼さん。また僕のこと、あなたの奥さんにしてくださいね……」
天鬼はふと考えた。口に出すつもりはなかったが、知らず声に出ていた。
「お前は私のためだけに生まれてきてくれたのやもしれんな」
きり丸は大きな目をこれ以上ないくらいに見開いた。そうして声に喜びを滲ませて、こぼれんばかりの笑みを浮かべた。
「なんだ。今ごろ気付いたんですか?」
終