カツ!カツ!カツ!
黒板にチョークを打ち付ける音が響く。音だけが響く。鉄板と石膏がぶつかり合う無機質な音だけが、不気味なほどにしんと静まり返った教室に響く。
カツ!カツ!ガッ!
―――あ、また折った。
日向はそう思ったが、それだけだった。こちら側に背中を向けた現代文の担当教師は、折れたチョークを気にすることもなく、どころか当然のように折れた箇所から再び文字を書き始めた。お世辞にもきれいとは言い難いその字の、書いた端からもれなくぼろぼろと石膏の白い粉が落ちてくる。おかげで彼の真っ黒なスーツは、袖口だけが真っ白だった。いつものことだ。
キンコンカン、ビッグベンの正午の鐘の音が流れると、これで息をしても良い理由が出来たとでもいうように、クラス全員がほうっと一斉に安堵のため息を吐いた。待ちに待った昼休みだ。教師は黒板の隅までぎちぎちに文字を書き終えると、すっかり短くなったチョークをガン!と乱暴に置いて、そこでようやく振り向いた。背中ばかりだった彼が、生徒に顔を見せたのは授業が始まってから実に一時間ぶりだった。
「……此処までノートに取ってからメシ食え。五分後に消す」
えぇーー!!とたちまち大きなブーイングが沸き起こる。いつもこうだ。彼は時間ぎりぎりまで板書を取らせてくれない。なぜなら馬鹿みたいに背が高いので、文字があらかた隠れてちっとも見えやしないのだ。
「購買売り切れるじゃんよー!」
「影山センセー、何度も言うけど黒板消しは日直の仕事だから!」
文句を言いながら、みな必死で手を動かしている。彼は週の終わりに必ず全員分ノートを提出させる。そこにもし抜けがあったら有無を言わさず再提出だ。決して見逃さない。どんな視力してたらそんな細かいとこまで見れるんだよ、とみな思っているが、口には出さない。なぜなら彼はそういう変態だからだ。
五分後、ちょっと待って先生まだ書き終わってない!という悲鳴を無視して、彼は無情にも板書を消した。余談だが彼はおそろしく腕が長い。ついでに足も長い。すなわち動作がでかい。よって一往復で板書はほとんど消え去るのだ。
「号令」という低い声の後で、あわてて起立!と委員長の声が響く。礼!をして生徒が一斉に顔を上げると、彼はもう教室を出ている。それも、いつものことだ。
***
「影山ってさぁ、ほんと何考えてんだろな」
弁当箱を広げながら、クラスメイトの関向幸治がぼやいた。「あんな機械人間みてーな性格で、生きづらくねーのかな?」
翔ちゃんからあげと肉巻きトレードしよ、と声をかけながら、同じく幼馴染の泉行高が「でもさ」と肩をすくめた。
「女子の人気は高いよね。昼休みだってのに今日もみんな押しかけてるし」
見渡すと教室には女子の姿があきらかに少なかった。皆こぞって職員室へ押しかけているのだ。「授業でわからなかったこと」を聞くために。絶対に無駄口を叩かない彼が、唯一、授業内容に関係することにだけは懇切丁寧に答えてくれるからだ。
「あんな無愛想な変態、どこがいーんだよなあ?ちょーっと俺より背が高くて、足が長いってだけじゃんか」
「顔もコージーよりだいぶいいでしょ」
んだと俺だって愛嬌あんぞコラ、残念だけど美醜の問題だよ、向かい合ってくっ付けた席でいつものように騒ぐ二人を横目に、日向はトレードした肉巻きアスパラを口に放り込んだ。あ、おいしい。さすが料理上手のイズミンのおばちゃん。
「翔陽は大変だよな、あんなんが放課後まで一緒でさ」
そこで思い出したようにコージーが日向を見て言った。
「部活、最近はどんな感じ?少しはマシになった?」
イズミンが少しだけ眉をひそめて尋ねた。口の中のものをもぐもぐ租借して飲み込んで、パックの牛乳をひと口飲んで、日向はふうっと大きく息を吐いた。
「――ぜんぜん、最悪。おれ、あいつ、大っ嫌い!」
***
「ヘバッてんなよー!」
三年生のガラガラ声が体育館に響く。オゥ!と自分も声を張り上げて、日向は走る。ネットの前でキュッとシューズを鳴らして一瞬止まってそれから、勢いをつけて、飛ぶ。思い切り高く、もっと上へ、もっと上へ。
ボールは手のひらど真ん中に当たって、そのまま勢いよく相手のコートへ、
「なんの!」
向こう側から延ばされた長い指が、打ったボールにぶち当たる。日向のスパイクを軽々と跳ね付けた同じ一年の高身長が、目が合うなりニヤリと笑ってみせた。
「ちゃんと前見て打てボゲェ!馬鹿の一つ覚えみたく我武者羅に飛んでりゃいいってもんじゃねーぞ!」
途端に後ろから聞こえてきた怒声に、日向はぐっと眉を寄せて舌打ちした。――くっそが。
「チビが高身長ブロックかわそうってんなら、もっと頭使えアタマ!運動神経だけが取り柄なんだろが、それしかねーんだから最大限に生かす努力しろこのくそボゲが!」
チームメイトが同情の眼差しで日向を見る。いつものことだ。コートの外で鬼の形相をしている背の高い男は、額に青筋を浮かべて更に吐き捨てた。
「役に立たねえ奴はチームにいらねえんだよ!」
彼が着ているのは、真っ黒いカラスみたいなジャージだ。裾が解れてだらしないはずなのに、長い脚がぴったり収まって様になっているのが腹立たしい。授業中の寡黙さが嘘のように、まるでその分を取り戻さんとばかりに、彼は部活中よく喋った。……主に暴言を。主に口汚く。主にチームでいちばん下手糞な一年生、日向翔陽に向けて。
影山飛雄、27歳。寡黙な現代文担当教師。もひとつついでに、鬼のバレー部顧問。
***
「おつかれー」
お疲れっした!と挨拶をして、部室を出る。部室棟そばの駐輪所まで走って行って、チャリを押して校門まで早足で歩いている時、後ろから高い声が「日向!」と呼んだ。
振り向くと、同じ一年のマネージャーがぜぇぜぇ息をきらしてその場にしゃがみ込んでいた。
「谷地さん!おつかれ、どうしたの?」
「ひ、日向、足はやいよぉ……」
鈍足にも関わらずここまで必死で追いかけてきたらしい仁花は、ひゅーっふーっ!とあまりよくない深呼吸をしてから、おもむろに日向に向き直った。
「あのね、影山先生の言うこと、気にしない方がいいよ。あんなの、めちゃくちゃだもん。いっつも日向にばっか意地悪ゆってさ、酷すぎるよ!わたし、か、影山先生ってき、キライだよ!ものには言い方ってもんがあるんだよ!今度会ったら、いや部活で明後日またすぐ会うけど、その時はビシッとい、言ってやんよぉ!」
最後の方は震え声で、涙目だった。人一倍ビビリの仁花が、一生懸命に味方になろうとしてくれている。その気持ちが嬉しくて、日向はニカッと歯を見せて笑った。
「ありがと谷地さん。でもおれ、全っ然だいじょうぶだから、心配しないで」
「、ほんとに……?」
仁花が鼻を鳴らしながら不安げに尋ねる。日向はうん!と勢いよく頷いてみせた。
「チビとかへたくそとか、ボゲとかカスとか、あんだけ毎日言われたらもう慣れるって。おれも心ん中でいっつも言い返してるよ。薄らノッポとか非人間とか、オニ山とかクソ山とかバ影山とか、あと手長足長とか!」
「て、手長足長!」
たまらず噴き出した仁花を見て、日向はもういちど笑った。それから少しだけ眉を寄せて「……おれもそうだよ」とごく小さな声でつぶやいた。
「おれも影山先生、大嫌いだ」
***
チャリを公園の脇に停めて、日向は通学かばんの中から携帯を取り出すと、慣れた手つきで自宅の番号を呼び出した。
「あ、もしもし母さん?おれ。これから先輩ん家で部活のミーティングあるから。わかってるよ、10時までには帰る。ご飯は食べるからとっておいて。……夏?明日遊んでやるからって言っといて。うん、じゃあね」
通話を切ると、表示された時計を確認する。午後7時半。電源をオフにしてそのまま無造作に携帯をかばんに突っ込んだ。チャリに跨り、深呼吸して、そのままペダルに足を掛けて、それから一気に漕ぎ出す。一心不乱に、前だけを見て。10時まで、あと2時間ちょっとしかない。だから早く。もっとはやく。一秒でも、一瞬でも早く。
日向の乗った自転車は自宅とは真逆の方向に猛スピードで進み、商店街を抜けて、住宅地に入り、脇道を突っ切って、やがて6階建てのマンションに辿り着いた。日当たりの悪い立地に建つ、薄いグレーの壁は、いつ見てもちょっと冷たい感じがする。裏口へ回ると、自転車を壁に立て掛けるように停めて、そのままもういちど正面玄関へ戻った。
エントランスを入って最初の扉の横、掃除が行き届いていないのか、薄っすらとホコリを被った液晶パネルの前に立つ。
「6、0、1」
ボタンを押すと呼出音が鳴って、すぐに扉が解錠された。滑り込むように中に入ると、ちょうどエレベーターが一階に降りていた。素早く乗り込んでそのまま6階を目指す。上昇する狭い室内で、日向は思わず足踏みする。早く、はやく。早く着いて!
ポーン、音と共に扉が開いて、日向は待ち切れずに駆け出した。607、606、605……、いくつもドアを通り過ぎて、ようやくいちばん奥の角部屋の前に立つ。601号室。大きくひとつ息を吐いて、震えそうになる指先でインターホンを強く押した。
―――ピン、ポーン。
足音が聞こえてすぐ、目の前でドアが開いた。中から現れたその人を見て、日向は満面のほほ笑みを浮かべた。
「……あいたかった」
舌っ足らずな声を出したと同時に、部屋の中へ引きずり込まれた。
ドアが閉まりきらないうちから、狭い玄関で壁に背中を押し付けられて、そのまま真上から覆い被さるように抱きしめられた。日向は深い海に沈む寸前の人間のように、その広い背中に腕を回して必死に縋り付いた。
「―――ぇ、おれ、おれ」
言い終わらないうちに顎を掴まれて、無理やり上げさせられた。強制的に上を向いた目線の先には、今日も何度も見てきた黒があった。袖口だけが白いスーツより、カラスみたいなジャージより、もっとずっと深くて暗い、漆黒の目。
「……日向」
薄い唇がひどく優しい声音で名前を読んだ。それでもうちっとも我慢できなかった。
「影山先生」
限界まで爪先立って、喉を仰け反らせる勢いで伸び上がって、今度はその太い首筋に腕を絡ませて、――日向にできるのはそこまでだった。後は待つしかない。もどかしいけれど、歯がゆいけれど、そうするしかないのだ。
「目、瞑れ」
言われるままにギュッときつく目を閉じたら「そこまでしなくていい」と笑みを含んだ声がして、それからすぐに下りてきたものに、日向はあまりの幸福感で足元からどろどろに崩れそうな心地がした。少し冷たくて、がさがさしていて、でもちゃんと柔らかい、いとおしげに自分を呼ぶ大好きなその人の、薄くて熱い唇の感触。
(先生)
ほとんど腰を折り曲げるようにした苦しい体勢で、けれど自分に合わせて限界まで屈んでくれている男の、丸くてやっぱり真っ黒な後頭部を手のひらで撫ぜ回して、指を差し入れて掻き乱して、日向はめちゃくちゃなキスを返した。
(先生)
「影山先生、大好き……」
影山飛雄、27歳。寡黙な現代文担当教師、鬼のバレー部顧問、それから今は、今だけは。
おれの恋人。
***
初めて出会った日のことを、昨日のことのように覚えている。
高校に入学して最初の授業が現代文だった。予鈴と同時に教室に入ってきた教師はひどく無愛想で、ぶっきらぼうで、とても背が高くて、おまけになんだか真っ黒だった。開始のチャイムが鳴ってから終了のチャイムが鳴るまで、彼はずっと黒板と話をしていた。周りの生徒たちのざわめきの中、日向はぼんやりとその広い背中を見つめていた。なぜだか彼から少しも目を離せなかった。
数日後、入部したバレー部で顧問として顔を出してきたその人は、やっぱり真っ黒だった。一言、二言、あいかわらずちっとも愛想のない表情で喋っている姿からは、これっぽっちのやる気も感じられなかった。けれど日向は、彼が使い古されたバレーボールを持つその手指を、どうしようもなく尊いと思った。なぜそんなふうに思うのかはわからなかったけれど。
新入部員の小さな一年生、その人並み外れた跳躍力に、影山は思わず指導の手を止めて釘付けになった。全身がバネにでもなったかのような動き。その圧倒的な運動神経。誰よりも小さく細い体で、誰よりも高いところに向かって必死になって飛ぼうとしている姿が、いつまでも目蓋に焼き付いて離れなかった。
自分がいちばん下手くそだから、と部活終わりの体育館で居残り練習をしたいと申し出た日向に頷いて、影山はしばらく黙ってその自主練を見詰めていたが、ある日ふとこう言ったのだ。今思えばなぜ、自分がそんなことを言ったのかわからない。
「俺がトス、上げてやる」
それがすべての間違いであったのかもしれない。あるいは最初からそうなる運命だったのかもしれない。どんなに必死で回避したとしても。どうあがいても。
ここに来てほしいという場所に、寸分の狂いもなく正確に落ちてくるボール、そこに居て欲しいと思うまさにその場所に、いつだって全力で飛び込んでくる小さな身体。どうしようもない下手くそで、スパイクなんかまともに成功したこともないはずの日向が、しかしその日だけは何本も、何十本も、何百本でも打てると確信した。このトスが上がるなら。このトスがおれを導くのなら。
「どうして影山先生は、おれのチームメイトじゃないの」
ある日の放課後、いつものように影山のトスを打った日向はそう言うなり、コートに膝から崩れ落ちて泣いた。馬鹿みたいに大声で泣いた。まるきり子供の我がままだった。大粒の涙をぼろぼろ零しながらしゃくりあげる日向を、影山は黙って見つめていた。まったく同じことを考えていたからだ。
かつては大手企業チームの所属選手だったのだと告げた時、日向のまるい瞳が大きく瞬いた。
「ガキの頃からバレーが好きで、毎日バレーしかなくて、将来はぜってぇプロになってこれでメシ食ってくんだって当たり前みたいに思ってた。背が伸びても、幾つ年が増えても、変わらずバレーだけが好きだったから、好きなままだったから。俺は一生バレーと一緒に生きていくんだって、何の疑いもなく信じてた。……でも」
輝かしい選手時代。その、かけがえのない時期に取り返しのつかない怪我をして、あっという間に俺のバレー人生は終わった。まだ好きだったのに。ずっと好きなままだったのに。どうして。こんなにも愛しているのに、バレーはどうして俺を最後まで愛してくれなかった?
大学在学時に軽い気持ちで取った教員免許で今の職に就いて、深い事情を知らない人間からの「昔やってたんなら部活持てるだろ」というあまりに残酷な言葉で、そのままバレー部の顧問になった。かつて自分が立って居た、今はもう絶対に立てないその場所に、若く健康で未来を夢見る子どもたちが居る。それを毎日見せつけられるのは、影山にとって苦痛でしかなかった。なんと呪わしい。なんて羨ましい。
――そのサーブはなんだ。どこに打ってやがる。それくらい取れねえのかよ。もっと早く走れ。もっと早く飛べ。勝ちたいなら出来るだろ。出来ねえなら退けよ、そこを俺に代われ。そしたら俺が上げてやるのに。いつだって俺が一番てっぺんまで連れて行ってやるのに。
「おれが、先生の隣にいられたらよかった」
頬を擦り寄せながら泣きじゃくる日向の、汗で少しくったりしたオレンジ色の髪の毛を撫でながら、影山は「そうだな」と少しだけさみしげにほほ笑んだ。
「……俺がトスを上げたあの先に、日向。もしもお前が、居てくれたなら」
***
影山の部屋のベッドは、当たり前のように彼の匂いがする。何よりもいとおしい匂い。
「先生、好き。すきだよ。影山先生のおっきい手も、ながい指も、髪の毛も、足も、怒った顔も、ちょっと四角い爪のかたちも好きだよ」
シーツにうつ伏せに押し付けられ、背中から圧し掛かられて、その身を容易く明け渡しながら、日向はひたすら「好き」と繰り返した。
「愛想のないとこも好きだよ。チョーク一日に何本も折って、ン、袖んとこ真っ白になってるのも、好き。背中しか見えなくても、ア、好き。黒板消すときに、手の甲に骨の形が……浮き出てるのも好き。ほッ、かの、生徒と、まともに会話、できないとこも、あっぁ、女子に、差し入れもらって困って、る顔も、……ッ部活の時、ジャージの裾……ん、あっ、アッ!いっつも、ほつれてて……ハ、ぁ、あ。だらしないのも、ん、ぜんぶ好き……。でも、」
後ろから顎をとられて振り向かされて、無茶な体勢でねっとり唇を合わせながら、わずかな呼吸の隙に日向は続けた。
「先生を嫌いなふりするの、しんどいよ……」
俺たちは本当はもっと違う場所で、違う形で出会っていたのかもしれない、と彼は言った。
「たとえば?」
「同い年だったかもしれない。同じチームでバレーをやってたかもしれない」
「ケンカばっかりして?」
「そう。お前があんまり下手くそだから、俺が怒って派手な殴り合いとかしたかも。俺すぐ手が出るから」
「ひどい!でも、なんだかんだ練習には付き合ってくれるんだ、きっと」
「先輩や顧問に怒られて、それでも一緒に練習して、試合に出て、勝って、負けて」
「いっしょに合宿とかして、遠征とかも行って?うわーぜったい楽しい!そんなの」
「俺が上げたトスで、お前がてっぺんを目指して、……きっといつかは同じ景色を見てた」
何かが。きっと何かがほんの少しのタイミングでずれて、俺たちはずいぶん長い時間を出会うことができないでいたのだ。俺があんまり焦って、早く会いたくて、もうちょっと待てばよかったのに我慢できなくて、ついつい先に生まれてきてしまったのかもしれない。お前はどんな時も俺の傍に居てくれると、絶対に俺に会いに来てくれると、信じていたから。
「あ、あ、ぁ……先生ぇ」
初めて影山と寝た時も、日向はあんまり嬉しくて、幸せで、安心して、胸が苦しくて、愛があふれて、涙がこぼれた。距離が急速に縮まり過ぎた自覚はあった。少しばかり急ぎ過ぎた感はあった。でもそれをおかしいとは思わなかった。むしろ間違いなく早くそうなるべきだという自信があった。身体を重ねた時、これでようやく一つになれたんだと心の底から安堵した。とてもしっくり来るものがあったのだ。俺たちはいつだってこうあるべきだったんだと、何かが、誰かが、叫ぶのだ。嬉々として。
(そうでなければ同じ世界に生きている意味なんてない)
「……最初っからひとつだったんじゃないかな……?」
弛緩した身体を力なく横たえて、日向はつぶやいた。そうかもしれねぇな、と影山は笑った。少しだけ苦しそうに眉を曲げていたのを知っている。
***
玄関先でキスをひとつ。伸び上がって首筋に縋ると、震える背中を強く抱きしめてくれる。それが日向には嬉しい。影山の大きな手のひらで撫でられると、死ぬほど安心するのだ。いつかもずっとそうだった。そうしてほしくて堪らなかった。
「俺はきっといつかお前の人生の汚点になる」
真っ黒い瞳で日向を見詰めたまま、瞬き一つせず彼はそう言った。
「お前が俺を社会的に制裁する方法はいくらでもある」
日向は目を閉じて、影山の肩口に鼻をうずめたまま、よく響く声を聞いていた。毎回毎回、よくもまあと感心するほど、一字一句違わぬ同じ言葉を。日向は彼が罰されたいのでも、懺悔しているのでも、後悔しているのでもないことを知っているので、ただ黙って頷いている。影山の気の済むまで。
「でも今はまだおれ、先生のこと好きだよ」
そう言うと真っ暗に淀んでいた彼の瞳が、ほんの僅かだけ輝くのだ。さらにきつく強く抱き締めてくる腕の力を背中で感じて、日向は幸福で押し潰されそうになる。はーっ、と肺の奥から息を吐いた。
「大好きだよ、先生」
ふと、大きな手のひらが頬に添えられた。何より尊い彼の手の、指に自分の指を絡める。日向は彼の手をとって、唇を寄せて、うっとりとほほ笑みながら囁いた。
「ずっと俺と一緒にいてね」
「……山椒魚が、ここで問うた『おまえはいま何を考えているようなのだろうか』 これに対する蛙の答えが意味するものは何か。『今でも別にお前のことを怒ってはいないんだ』とは果たして本心かどうか」
こちら側に背を向けて、黒板と会話している現代文の担当教師の黒いスーツの袖口は、今日も相変わらず白く汚れている。斜め後ろのイズミンが、声をひそめて「ねえ」と話しかけてきた。
「影山先生、小指どうしたの?部活で怪我したの?」
スッゲー痛そう、と眉をしかめて呟いた彼をちらりと横目で見て、日向は視線をまたゆっくりと黒板に戻した。
チョークを持つ彼の右手小指に、これ見よがしに大袈裟な白い包帯が巻かれている。目を凝らさなければわからない、そこに薄っすら滲んだ赤い色を見て、日向はどこか色気のある猫のような顔で笑った。「さあね。でも、いい気味じゃない?」
「おれ、あいつ、大っ嫌い」
end.