クラシック

玄関の扉をこんなにも重く感じたことはなかった。

息を弾ませながら框を上がって、脱ぎ散らかしたせいで三和土にでたらめに転がった靴には見向きもしないで、一目散に階段を駆け上った。台所から母親の「遙ちゃん帰ってるの?おやつあるわよ」という声が聞こえたが、それに応えている暇はなかった。すっかり建てつけの悪くなった自室のドアをこじ開けるようにして中に入ると、ばたん!と大きな音をたてて背中で閉めた。床にどさっと鞄を落として、汗だくの背中をドアにぺったり付けたまま、遙は握り締めていた一通のエア・メールを、ふるえる指で慎重に開いた。

——凛から初めて手紙が届いたのだ。

『七瀬 遙様

お元気ですか。すぐにお手紙を出すと言っておきながら、こんなに遅くなってしまってごめん。僕がこっちに来て、もう三ヶ月がたつんですね。今は七月、日本はいちばん暑い季節でしょうか。

オーストラリアは真冬です。夜にはコートとマフラーと手ぶくろがないと、寒くて外を歩けません。ま逆の季節なんて、なんだかおかしな感じです。

僕がホームステイをしている家は、学校から近くて、通いやすいです。ラッセルもローリーもとてもやさしい、いい人たちです。家ではウィニーという犬を飼っています。ウィニーは僕にすごく懐いていて、かわいいです。

僕は毎日泳いでいます。授業が終わるとすぐに、クラブチームのプールに行きます。メインプールはとても広くて、たくさんの人がいます。ここから何人もオリンピック選手になった人がいるそうです。僕もいつか絶対に、そうなります。

七瀬は、どうしていますか?今も毎日スイミングクラブで泳いでいますか?真琴や渚は元気ですか?いつもみんなをなつかしく思い出します。七瀬にあいたいです。
またお手紙を書きます。七瀬も書いてくれたらうれしい。

それではお元気で。

松岡 凛』

手紙を手にしたまま、遙は制服が皺になってしまうのも構わずにベッドの上に寝転んだ。何度もなんども読み返して、それからお終いにぎゅうっと胸に抱き締めた。

「僕」だって、らしくない。やたらかしこまっていて、ちょっと笑ってしまう。凛の文字は少し角ばっていて、あいかわらず右上がりだ。オーストラリアは冬。ラッセルとローリーとウィニー。凛の新しい生活を、少しだけ知れてよかった。

——うれしい。おれも会いたい。

夕飯の席で、母親が「何かいいことあったの?」と尋ねてきた。テレビを見ていた父親も「そう言えば今日はいつになく機嫌がいいな」とこちらを見た。遙は「べつに」と目を逸らして、素知らぬ顔で鯖の味噌煮を口に運んだ。母さんの鯖はやっぱり美味しい。食後のお茶を飲んで、デザートのびわが出されたところで「凛から手紙がきた」とぽつりと呟いた。母親は目を大きく見開いて、それから花がほころぶように笑った。

「よかったわね。遙ちゃん、ずっと待ってたものね」

リンって誰だ?女の子か?えっ遙にもとうとう彼女が?でもまだ早くない?
父親の焦ったような声は耳を素通りしていった。

誰かに手紙を書くのは初めてで、とても悩んだ。凛からの手紙はとても大人びていて、どこか別の人が書いたもののように思えた。遙はルーズリーフに丁寧に下書きをして、何枚も失敗して、そのたびにくしゃくしゃ丸めてゴミ箱に突っ込んだ。

——手紙をありがとう。元気そうでよかった。おれも真琴も元気だ。こっちは毎日とても暑い。そっちは冬だなんて信じられない。中学では水泳部に入った。渚とは週に一回クラブで会うだけだけど、ちっとも変わらない。おれは部活の時間より、クラブで泳ぐ方が好きだ。タイムばかり計るのはつまらない。もっと自由に泳ぎたい。夏の大会に出ることになった。一年の代表はおれだけだから、ちょっともめた。ウィニーの写真が見たい。前みたいにハルと呼べばいい。

時間をかけてことさら丁寧に、そんなことを書いた。
手紙をポストに投函してから二週間が経ったころ、返事が来た。

『ハルへ

お返事ありがとう。水泳部に入ったと聞いて、おどろきました。ハルは人の言うことをきいたり、合わせたりすることが苦手だったから。でも、真琴が一緒なら心配いらないか。一年でもう大会に出られるなんてすごい。もしかして、先輩に何か言われたんでしょうか?ハルには才能があるから。うまくやれるといいなと思ってます。

こっちでもクラブの大会があって、このあいだ選抜のためにタイムを計りました。僕は10人中9位でした。まわりは皆、すごい奴らばかりです。今回は選ばれなかったけど、次はぜったい負けないように頑張ろうと思います。

シドニーの海には野生のイルカの群れや、アザラシや、ペンギンがいます。この前ラッセルがホエール・ウォッチングに連れて行ってくれました。大迫力で、楽しかった。イルカを見て、ハルを思い出しました。ハルにあいたいです。

ウィニーの写真を同封します。まだ子犬で、寝てばかりです。

それではお元気で。

凛』

写真には、誰かの膝の上ですやすや眠る真っ黒い子犬が写っていた。見切れているチェックのズボンを見つけて、凛が自分で撮ったんだろうなとわかった。遙は少しばかりムッとして唇をとがらせた。

(おれは、おまえの写っている写真がほしかったのに)

素直に書くことは恥ずかしくて、だから遠まわしに言ったのだ。伝わらなくて馬鹿みたいだ。でもまあ確かにウィニーは可愛い。

夕食の後で湯船に浸かりながら、遙はぼんやり思った。凛が9位なんて、とても信じられない。たまたま調子が出なかっただけだろう。いつかオリンピックの代表になって表彰台へ上がるのだと、口ぐせのように言っていた。その目は自信にあふれていて、きらきらと眩しかった。大丈夫、おまえならきっと。

またハルと呼んでもらえたことが嬉しい。おれも凛に会いたい。

——返事をありがとう。大会は、三年生は夏で最後だから、おれは出るべきじゃないと思ったけど、監督が出ろという。部活はとてもやりにくい。さいきんは水の中にいても空気がおもい。凛はとても早いから、次はぜったいに大丈夫だ。おれはちっとも心配していない。このあいだから真琴の声がおかしい。ずっとカゼをひいているみたいだ。夜中に体がきしむと言っていた。おれもクジラを近くで見てみたい。ペンギンは渚に見せてやったらよろこぶと思う。ラッセルとローリーの写真も見たい。凛はカゼをひかないように。

七月の終わりに、返事が届いた。

『ハルへ

学年に関係なく、タイムの早いやつが代表になるべきだと僕は思います。だからハルは堂々としていればいい。

僕はこのごろ、朝もクラブへ行って練習しています。おかげで授業中はねむくて仕方がありません。担任の先生は美人だけど、ちょっとこわい。

真琴のそれは、声変わりだと思います。もしかして真琴のやつ、いきなり背が伸びたりしませんでしたか?すごくうらやましい。僕ももっと身長がほしい。どんなに泳いでも疲れない体がほしい。そうしたら、もっとずっと早く泳げるのに。

昨日は休みで、ローリーと一緒に街の外まで出かけました。公園の中に野生のカンガルーがいました。オーストラリアって、ハル、ほんとにカンガルーがいるんだ!すごくびっくりした。

先週はチーム分けのタイムを計りました。結果は8位で、僕はCチームでした。もっと頑張って、早くAに入りたい。

ラッセルとローリーの写真を同封します。二人はとても仲がよくて、しょっちゅうキスをしています。ハルにあいたい。
ハルはキスをしたことがありますか?

それではお元気で。

凛』

唐突な最後の質問に、遙は狼狽した。いきなり何を聞くんだ。写真にはやさしそうな夫婦が、肩を抱き合って写っていた。おそらくこれを撮ったのも凛だろう。また伝わらなかったことに、遙はため息をついた。おれは凛の顔がみたい。凛に会いたい。

「何か悩みごとがあるの?」と母親が尋ねた。今夜は焼き鯖だ。皮がぱりっとしていて香ばしい。横から「彼女とうまく行ってないのか?」と父親が的外れなことを言ってきたが、そちらは無視した。

「真琴が声がわりしたみたいだ」
「ああ、そうみたいね。でも、遙ちゃんもすぐよ」

二人ともこうやってどんどん大きくなっていくのね。母親は少しだけさみしそうな顔をして笑った。

——大会はフリーの100に出た。結果は1位で県大会に出ることになった。あまりうれしくない。でも、出なくちゃいけない。プールの中にいるのに、いつも水が恋しいのはどうしてだろう。凛は声がわりをしたのか。あまり変わってほしくない。練習ばかりしていて疲れないか。たまには休んだほうがいい。今は夏休みなのでスイミングクラブによく行く。さいきん生徒が減ってしまったとコーチがぼやいていた。プールが広く使えるからいい。
キスなんてしたことない。キスは好きな相手とするものだ。

最後は殴り書きのようになってしまった。ろくに読み返しもせずに便せんを折り畳むと、ポストまで走って行って投函した。

お盆が明けるころになって、返事が来た。

『ハルへ

予選1位通過おめでとう!やっぱりハルはすごい。手紙を読んで僕もとてもうれしくなりました。ハルも、もっと喜んでいいのにな。

水が恋しいのは、きっとハルが息苦しさを感じているからではないでしょうか。今までみたいに楽しく泳ぐことはむずかしいと、僕もこのごろ思うようになりました。

僕も少し声変わりをしかけています。毎朝のどがイガイガする。ハルが声変わりしたらどんなふうになるんだろう。ハルの声を聞きたいです。いつもとてもハルにあいたい。

笹部コーチは元気ですか。僕もまた岩鳶スイミングクラブで、みんなと一緒に泳ぎたいです。

このあいだ、クラスメイトの女の子に好きだと言われてキスされました。わりと仲良くしていた子だったけど、すごくおどろいた。こっちに来てからはあいさつで頬っぺたにしょっちゅうキスをするので、もう慣れたと思っていたんだけど。

好きな人とするキスは、もっと特別なんだろうなと思います。もしかしたら、ハルには好きな人がいるんですか?

それでは、お元気で。

凛』

気が付けば指に力がこもっていた。握り締めたせいで便せんに寄ってしまったシワを慌てて指で伸ばしてから、けれど胸がムカムカしてどうにも収まらなかった。

(どうして簡単にキスなんかさせるんだ)

遙は、いつか間近に見た凛の白い頬を思い浮かべた。走ったり、泳いだり、興奮するといつもそこはばら色に染まっていた。ふざけて頬ずりされた時、あんまり柔らかくてびっくりした。近くに寄られるとどうしたらいいのかわからなくて、いつも「やめろよ」と冷たく押しのけていた。

——おれにはキスしてくれたことなんかないくせに。

そう考えて、遙は恥ずかしさでいたたまれなくなった。おれは何を言ってるんだろう。友だちにキスなんかしない。そんなのあたりまえだ。どうかしてる。凛が変なことを書くからだ。

返事を書けないまま夏休みは過ぎた。県大会のフリーの100で、遙は2位になった。全国大会へは行けないことに、どこかホッとした。花火大会は縁側から見て、真琴の家族と一緒にキャンプへ出かけた。近くの海で泳いで、鼻の頭の皮が少し剥けた。

夏が終わり、新学期が始まってしばらく経ったころ、手紙が届いた。

『ハルへ

僕はなにか、ハルを怒らせるようなことを書いてしまったんでしょうか。だとしたらごめん。ハルからの手紙が届いてないか、毎日ポストを覗いています。

日本はちょうど夏休みが終わって、二学期が始まったころですね。こっちではもうすぐ春休みです。季節が違いすぎて、そろそろわからなくなりそうです。休みになったら、ラッセルがウルルへ連れていってくれるんだって。真っ赤なエアーズ・ロックを見てみたい。砂漠でラクダに乗るのもいいな。

クラブのコーチは厳しくて、僕はいつも注意されてばかりいます。あんまり叱られるので、たまに泳ぐのがつらくなることがある。でも、あきらめたくないから頑張ります。

このごろはよくメドレーリレーのことを思い出します。真琴の泳ぎも、渚のストロークも、なつかしい。みんなにあいたい。ハルにあいたい。ハルもそう思ってくれたらいいのに。

凛』

勢いよく開けた引き出しから便せんを取り出して、遙は衝動のままに文をつづった。何度も間違えて、なんども消して、歯がゆい思いをしながら、それでも書いた。どうしてもっと早く返事を書かなかったんだろうと心の底から後悔した。つまらない焼きもちなんて気にしなければよかった。凛が待っていたのに。ずっと待ってくれていたのに。おれだって凛に会いたいのに。いつもそう思っているのに。

——返事が遅くなってごめん。本当にごめん。県大会では2位になった。三年生が引退して、少しだけ息が楽になった。

夏休みの終わりに花火を見た。真琴の家族とキャンプをした。海に行った。自由に泳いだのはずいぶんひさしぶりだ。

エアーズ・ロックがなにか知らない。有名なところなのか。凛が楽しいならいい。でもラクダなんかに乗って、落ちてケガでもしたらどうするんだ。あんまり危ないことはするな。

もしかしたら、クラブがおまえに合っていないんじゃないか。泳ぐのがつらいなら、いっそのこと日本に帰ってきたらいい。真琴も、渚も、おれも、おまえと泳いだリレーを忘れたことはない。また一緒に泳ごう、凛。

夜ふけに手紙を出しに行くと言ってきかない遙を、母親はやさしく宥めながら言った。

「今から出しても、明日の朝に出しても、集荷の時間は同じなのよ。朝早く起きて、一番の便で配達してもらいましょうね」

遙は駄々をこねる子どものように「でも」と頭を振った。

でも、もう、ひと月も遅れてるんだ。早くしないと凛がもっとさみしがる。そんなのはいやだ。だから早く。はやく……。

九月が終わり、十月になっても凛からの返事はなかった。遙はその間に二通の手紙を出した。学校のプールが使えなくなったから、部活はもっぱら体育館で筋トレばかりしていること。週に一度だけ使用できる市民体育館のプールでは、二年生のチームに混じって練習するようになったこと。スイミングクラブにあまり行けなくなったこと。リレーのメンバー候補になったこと。真琴の背が伸びた。朝に少しだけのどが痛い。水が恋しい。

(凛にあいたい)

夏の気配はもはや微塵もなく、秋は静かに深まっていった。やがてそれも終わり、冬のつめたい空気が漂い始めた十一月の半ばになってから、ようやく一通の手紙が届いた。

『ハルへ

お手紙をありがとう。なかなか返事を書けなくてごめん。

県大会2位おめでとう。やっぱりすごいな。でも僕は、ハルの実力なら優勝もあると思っていました。もしかしたら、ハル、わざと負けたんじゃないのか?

ごめん、いやなことを書きました。でも、どうしても、そう思わずにはいられないのです。

先月、二回目のチーム選抜がありました。僕は最下位でした。どうして上にあがれないんだろう。何がだめなんだろう。こんなに頑張ってるのに、何が足りないんだろう。

日本へは帰れない。そんなに簡単に夢をあきらめられるわけがない。おれもみんなと一緒に泳ぎたい。でも、できっこない。ハル、
ハルは今でも水泳が好きですか?

僕は、今は、もうわからない。

凛』

間違えてしまった、と遙は思った。何を?何もかも、ぜんぶだ。会いたいと言うだけでよかったのだ。それだけでよかったのに。

——帰って来いなんて、簡単に言うべきではなかったのに。

遙にあてた手紙の中で、凛が会いたいと書かなかったのは初めてだった。それがショックで、何より凛が水泳をつらいと、もう好きかどうかもわからないと、そう言って寄越したことが途方もなく悲しかった。

あんなに大好きだった水泳が凛を苦しめている。そう思うだけで、遙の胸も張り裂けそうだった。

またすぐに手紙を書いた。けれど返事は来なかった。師走に入り、岩鳶の海辺の町にも雪が降った。クリスマスには心を込めたカードを送った。年が明けても、凛から返事が来ることはなかった。

冬休みも終わりに近付いたある日、帰り道の途中にある踏切で、帰省していた凛とばったり再会した。

遮断機の向こう側に居た凛は、遙に気付くとハッと驚いたように目を見開いて、それからすぐに視線を逸らした。遮断機が上がるのも待ちきれず、遙は脇目も振らず真っ直ぐに、凛のもとへと駆けていった。

(あいたかった)

それだけが遙の心を占めていた。一年ぶりに見た凛は背が伸びていて、少し大人びているように思えた。凛があまり自分に会うことを喜んでいないのだと、その余所余所しい態度から遙は感じ取ったが、それでもよかった。ただ、ただ、うれしかった。

「……久しぶりに、泳いでみないか」

わざと負けたと思われたくなかった。だから。

結局、それきり凛に会うことはなかった。

遙は水泳部を辞め、同じ頃に岩鳶スイミングクラブが閉館した。泳ぐ場所を失くしたはずなのに、それでも遙が水を失うことはなかった。むしろ今までよりもずっと近くにあった。こういうことだったのか、と思った。もっと早く気付けたらよかった。そうしたら、間違えることもなかったのに。でも、

——これでいい。凛を傷付けるものはすべてなくなってしまえ。凛の世界から消えてしまえ。ああ、もう、消えてしまえ……

***

その古い手紙の束を見付けた時、遙の脳裏になつかしい記憶がよみがえってきた。

中1の夏から冬にかけて、真っ直ぐに、ひたすら純粋に、想いを伝えようと一生懸命だったあの頃。慣れないアルファベットで書かれた宛て先。海を越えていった証拠のちいさな傷や汚れ。

(ちゃんと届いてたのか)

手紙はきちんと揃えて束にしてあり、細い麻紐で縛られていた。もう長いこと開封されていないのは明らかで、けれどそれらがとても大切なものであることを示すように、外国製の大きなハンカチで丁寧に包んで仕舞われていた。

「ハルー、これ、お前の荷物だろ。間違えて俺んとこに」

汗をタオルで拭いながらドアから顔を出した凛は、遙が手にした手紙の束を見て、抱えていたダンボールを床に取り落とした。
「おっ、!お前、それ、なんで」
「おまえの荷物が混ざってた」
いや勝手に開けてんなよ!凛は顔を真っ赤にしてずかずか部屋に入ってくると、、床に座ったままの遙の手から半ばひったくるようにして手紙を奪い返した。
「箱を開けてから気付いたんだ。というか、それはおれが書いたものだし、おまえが恥ずかしがる必要がどこにあるんだ」
「後生大事に持ってるとか、こんなとこまで持ってきたとか、色々あんだろ!あーもう、言わせんじゃねーよ!」
手紙を後ろ手で背中に隠しながら、凛が早口でまくし立てた。

「凛」

静かな声で遙が言った。子どもをあやすような優しい声だった。

「……んだよ」

からかわれているのかと、凛はぴくりと眉を吊り上げた。

「おれも持ってる。ぜんぶ大事に取ってある。今は岩鳶の実家に置いてあるけど、持ってくればよかったな……」

至極まじめな顔でそう言うと、遙は立ち上がり、傍に突っ立ったままの凛の首に腕をまわした。少しだけ伸び上がる形で上を向くと、こちらを見つめていた凛と目が合った。キスをする理由はそれで十分だった。片手で器用に背中を抱く凛が、手にした手紙の束を床に落としてきつく抱き締めてくれないのが少しばかり不満ではあったけれど、今は素直に目を閉じた。

大学2年の夏、遙は休学してオーストラリアへ渡った。もはや常連となった国際大会へ出場するために、よりよい環境に身を置きたいと思ったからだ。それは紛れもない真実であったが、全てではない。表立って言う必要のないこともある。

遙より2年先に二度目の渡欧をしていた凛は、空港に降り立ったばかりの同い年のライバルを、人目もはばからず抱き締めた。

『宿命のライバルは、幼馴染みで大親友』

こっ恥ずかしい見出しで飾られた記事は大反響で、周りにさんざん冷やかされて、久しぶりに派手なケンカをしたばかりだ。

——プロとしてまだ駆け出しであり、節約するべきところはきちんと締めたい。自分は英会話が苦手で、諸々の手続きや交通機関でさえ苦労する。逆に相手は自炊が苦手で、外食に頼りきりであり、仮にもスポーツ選手としてこれはいただけない。手続きや通訳を任せる代わりに、食事管理の一切を引き受ける。何より一番のライバルが身近に居ることで、より切磋琢磨し、お互いにとって最良の関係を築くことができる。

そんな理由で晴れてルームシェアをする運びとなり、凛は今まで住んでいた大学の寮を出て、遙と二人で郊外に新しい部屋を借りたのだった。

「知ってるやつらには、バレバレだけどな」
数ヶ月ぶりの白米を嬉しそうに口に運びながら、凛が苦笑した。
「おまえは自炊だってちゃんと出来るからな」
燻製にした鯖を箸でほぐしながら、遙が言った。こちらでも鯖は手に入るが、さすがに引っ越し初日から遠出は出来なかった。近いうち凛にマーケットへ連れて行ってもらおう。
「いや、昔はそこそこやってたけど、今はもうてんでダメだぜ。高校も大学も寮だったし、そのまま一人暮らしになったらやばかったな。……なあ、この味噌汁うまいな」
「そうか」

遙がわざわざ自参してきた米と味噌と鯖の燻製その他調味料もろもろは、乏しい食材でも立派な日本食を作るのに大活躍した。やっぱり誰かに食べてもらえるのはうれしい。それが凛なら尚更だ。美味しいと言って貰えたことに、遙は四年間ちゃんと自炊を続けていてよかったと思った。
「足りない食器とかタオルとか、あと食材とか。休みの日にまとめて買い出し行こうぜ。半日レンタカー借りるから」
「こっちの車は乗れない」
地元で免許を取ったものの、車に乗る機会もない遙は殆どペーパードライバーだった。
「俺が運転するから大丈夫だって」
わかりやすく上機嫌な声で凛が言った。遙がオーストラリアに着いたその日から、彼はずっと嬉しそうだった。

2ベッドルーム、いわゆる2LDKの部屋には、たまに互いのチームメイトや知人を招くこともあるだろうということで、各部屋にシングルのベッドを置いた。けれど普段から使うベッドはきっと一つだけだろうなと、シーツに背中を沈めながら遙は思った。

「ハル、」

真新しいシーツの匂い。磨いたばかりの床のワックスの匂い。少し香りの強いボディオイル。それから。

「凛……」

堪らず背中に腕をまわすと、それを合図にするようにさらに深く抱き込まれた。抱き合うことはずいぶん久しぶりで、遙は凛の体がまた一段と引き締まったことに気が付いた。

「ぁ、痛、あっ」
「悪ィ、痛いか?」
「だいじょ……ぶ」
腰を揺すって、凛が中に入りやすいように大きく足を広げた。
「ッあ!」
ごりごりと壁を擦って侵入してくる感覚に、思わず高い声が出た。隣に聞こえてしまう。我慢しなければ、と咄嗟に口もとを押さえようとした手を、やんわりと外された。
「……ここは防音完備だから、声出しても大丈夫だぜ」

——お前のアパート、壁薄かったもんな。

耳もとでそう囁かれて、遙は一瞬で顔が紅潮するのを感じた。

遙の暮らしていた東京のアパートに、帰国してきた凛が何度か泊まりに来たことがある。布団も敷布も一人分しかなくて、当たり前のように二人で潜り込んで、獣のようなセックスをした。会えないことが当然で、年に数回、二人の休みが重なるわずかな時間を、一秒でも無駄にしたくはなかった。安い四畳半は壁が薄くて、隣人の生活音まで聞こえてきた。凛が深いところまで入り込むたび、遙は喉をのけ反らせて激しく悶えた。容赦のない突き上げに、ほとんど理性を飛ばしかけた遙が高い、子猫の鳴くような、引き攣れたような声を上げた瞬間、凛の大きな手のひらが遙の口を塞いで押さえ付けた。驚いた遙は目を見開いて、しかし律動は止まず、されるがままに揺さぶられた。まるで力づくで犯しているような倒錯したシチュエーションに、ひどく興奮したらしい凛は、荒い息のまま手酷く遙を抱いた。遙は凛の手のひらに噛み付きながら、全身を痙攣させてそのまま意識を飛ばした。信じられないくらい気持ちがよくて、このまま凛の腕の中で死んでもいいと、そんな馬鹿なことを思った。

思い出すだけで全身の血が沸騰しそうな記憶を、頭をぶんぶん振って無理やり追い出そうとした。すると振動が繋がっているところにダイレクトに響いて、遙はまた小さく声を上げた。
「明日、は、コーチと、ミーティングがあるから、だから」
声を枯らしたくない。腰が抜けては困る。だからもう少し加減してほしい。そんなことを目で訴えた遙をよそに、凛は悪い男の笑みを浮かべた。

「週末までプールには入れないから、いいよな」

唾液を引いた凛の歯が上下に開いて、そのまま遙の赤く尖った胸の先に、容赦なく噛み付いた。

***

目を覚ました時、凛の胸に抱かれているなら幸せだ。そして今夜はその幸せの中に居る。遙は甘えるように頬を擦り寄せた。

「起きたか?のど乾かねえ?」
隣で凛がペットボトルを傾けながら、飲むか?と尋ねた。
「のむ……」
遙がそう答えると凛は軽く頷いた。ボトルを呷って水を含むと、そのまま屈んで遙の唇に口づけた。凛の体温の分だけぬるくなった水は、遙の乾いた喉をうるおすように心地よく流れていった。
「もっとか?」
「うん」

二度、三度とくり返し与えられてから、遙はようやく満足したようにふうっと息を吐いた。お終いに遙の唇を軽く舐めてから、凛は残った水を一気に飲み干した。

「まだ夜中だぜ。寝ろよ。明日は早いんだろ」
「凛は眠れないのか」
遙の頭の下に腕を差し入れて、向かい合うように横向きに寝転がった凛が「んー?」と困ったように笑った。
「なんかさっきので色々、思い出しちまってさ」
「さっきの?」
「手紙」

ああ、と遙が頷いた。

「最後は結局、返事をくれないままだったな」
「それは、……悪かったと思ってるよ」

凛の胸に顔を埋めるようにして背中に腕をまわすと、枕にした手で頭を撫でて、反対側の腕で抱き締めてくれた。隙間なくぴったりくっ付いていると安心する。傍に居ると実感できる。

「オーストラリアに来さえすれば、夢が叶うと思ってたんだ。すぐに成果が出て、胸張ってハルに報告できるって。今思えばほんと、どうしようもねえガキだったんだよな。そんな簡単に結果が出るんなら、世の中みんなオリンピック選手だっつの」

凛の背中を撫でる。ずっと聞きたかったけれど、聞かなかったこと。凛が敢えて話さなかったこと。中1の夏から冬の半年間、二人の間で確かに交わしたもの。

「毎日ひたすら泳いで、駄目で、どんどん落ちて、辛くて情けなくて泣きたかった。そんな時にハルから届く手紙が、いつも俺に元気をくれたんだ。勇気が湧いてきて、なにくそって立ち上がることができたんだ。何度も繰り返し読んだよ。ハルは字がきれいで、便箋はいつもきちんと折り畳んであって、なんとなくハルの家の匂いがするような気がした。ハルが傍に居てくれるような気がした。心強くて、嬉しかった。俺はずっとハルのことが」

そこで凛は言葉を区切った。あれ?と眉を寄せて、遙を見た。

「……ずっと好きだったって、言ったっけ?」

遙は思わず噴き出した。

「聞いたよ。高2の秋に」

——ずっと好きだった。初めて会ったあの日から。遠く離れても忘れられなかった。たくさん傷付けて、振り回して、突き離して、身勝手なことばっかりで、本当に悪かったと思ってる。これからはずっと大事にする。もっと優しくなる。だから俺のことを好きになって欲しい。俺の恋人になってほしい。どうか、ハル。

「……会いたいっていつも書いてくれてたの、うれしかった」

広い背中を指で撫でながら、遙が言った。

「あれけっこう毎回、勇気出して書いたんだぜ。ほとんど告白みてーなモンだし、なのにお前は一度も「おれも」って書いてくれなくて、わりと凹んだ」
「書いてなかったか?」
「ねーよ!わざと無視されてんのかと思った」
「そうか。書いたつもりでいた。おれも、いつもそう思ってたから。凛がおれと同じ気持ちで、うれしかったんだ」

肩を抱く手に力がこもった。同じだけ指先に力をこめた。

「ウィニーの写真が欲しいとか、その次はラッセルとローリーのを寄こせとか、コイツほんと俺に興味ねーんだなって思って、すげぇガッカリした」
「あれはおまえの写真がほしかったんだ。でも、そう書くのは恥ずかしいから、わざと遠回しに書いた。ぜんぜん伝わらなくて、おれの方こそがっかりした」
「わっかんねーよ!ちゃんと言えよそういうことは!そうと知ってりゃ最高のスマイルきめて送ってやったのに!」
「普通のがいい」

額にキスが降ってきた。それはすぐに頬をすべって唇に落ちた。少しだけ口を開けて、入り込んできた舌を迎え入れた。

「……キスしたとか、されたとか。書かないでほしかった」
「、ごめん」
「おれはそんなの知りたくなかった」
「ごめん……」

もういちど深く唇を合わせた。最初のキスは高2の冬だった。それからもう何度もキスをした。凛の初めてはおれのものじゃなかった。それが本当は今でも悔しい。

「ハルに好きなやつが居たらどうしようかと思った。俺じゃない知らない誰かを、俺の居ないところで好きになったりしないで欲しかった。でも、俺の知ってるやつでも嫌だった。もしかしたらハルは、本当は、」

馬鹿なことを繰り返そうとする唇に、そっと指先を押し当てた。そこで凛はハッとして、自嘲するように目を伏せた。

「悪い。……もう二度と言わない」

遙はフッと溜め息を吐いた。呆れたからではなかった。これはもう少し長くかかるかもしれないと思ったからだ。意外と根深い問題なのかもしれない。それでも、何度でも付き合ってやるつもりでいた。これからずっと傍に居るのだから。

***

六月、シドニーは再びの冬に入った。肌を刺す寒さの中、二人並んで街を歩いた。遙が持ってきていた冬のコートは少し薄くて、見かねた凛が自分のマフラーをぐるぐるに巻いてくれた。

「こっちの生活には慣れたか?」
「まあ、ぼちぼちな。チームメイトはみんな、気さくないいやつらだ。たまにちょっとうるさいけど」
「ハルがチームの歓迎パーティに肉じゃがとか作っていくからだろ。週イチで押し掛けてくるとか、冗談じゃねーよ」
「食の好みが合えば、手っ取り早く仲良くなれるかと思ったんだ。まさかここまでとは思わなかった」
「あいつ名前なんつったっけ、やたらデカいの。ちょっと部屋に来すぎじゃねえ?こないだなんかお前のベッドで鼾かいてたじゃねーか。思い出したらムカついてきた、もう呼ぶなよ」
「だから寝室には鍵を付けただろ。ジョシュアはただの友人だ」
「いいやスキンシップが多過ぎる。あいつぜってー俺たちのこと勘付いてるし、なんかやたらこっち睨んでくるし、この前も、」

放っておけばどこまでも止みそうにない凛の文句は、遙がその手を掴んで自分のコートのポケットに入れたことでようやく大人しくなった。こっちに来てから気付いたが、凛はわりとベタなことを喜ぶのだ。揃いの食器とか、手作り弁当とか、行ってらっしゃいのキスとか。わかりやすくていっそ助かる。

「ジョシュアには最初に聞かれたから、ちゃんと話したんだ。凛を愛してるって」

そこでぴたりと凛の足が止まった。彼は間近から覗き込むようにして、まじまじと遙を見つめた。

「……もう一回言ってくれ」
「遅刻するぞ」

練習場であるスタジアムの、少し手前に差し掛かったところでそっと手を離した。ここからは、別のチームのライバルになる。横目で見た凛の顔は、もう焼きもち妬きの遙の恋人ではなく、一人の選手のものだった。それがとても頼もしくて、ほんの少しだけさみしい。けれどその何倍も、彼を好きだと思うのだ。

じゃあな、と軽く手を上げて向けられた広い背中に、遙は思わず「凛」と呼びかけた。

「今でも水泳が好きか?」

振り向いた凛は二、三度ぱちぱちと目を瞬かせて、それから遙のいっとう好きな、十二歳の子どもみたいな顔で笑った。

「大好きだ」

凛を傷付けるものは消えてしまえばいいと思っていた。それが水泳であっても、遙自身であっても。けれど凛が傷付いて泣きながら、それでも欲しいと言ったから、遙はもういちど手を伸ばしたのだ。凛が望むなら、自分は何度だってそうするのだ。

(もしおまえがもう一度、)

水がふたたび凛を絶望たらしめても。もう這い上がれないと力尽きたその時は、彼のその手をとっていっしょに沈もう。
大丈夫、少しも怖くない。水はおれを離れていかない。凛の手を離さない限り。凛がおれを離さないかぎり。

「大好きだ、凛」

おれはおまえと同じ景色を見ていたい。いつでも。