シンデレラも白雪姫もいばら姫も、あとえっと、誰が居たっけか。まあいい、兎にも角にもだ。世界で読み継がれるハッピーエンドの常套句「2人は結ばれて、いつまでもいつまでも幸せに暮らしました」これだ。2人はいつまでも、いつまでも――いつまでもって、いつまでだ。
遙は重い瞼をこじ開ける。見慣れた古い我が家の天井、いつもと変わらぬ自分の部屋。ただ一つ違うのは、頭の後ろに感じる硬さと、己の腹を後ろからがっちりホールドしているものがあることだった。
――ああ、帰って来てたのか。
シドニーから直行便でおおよそ9時間半、そこからまた国内線で1時間と少し。更に電車を乗り継いで、寂れた駅から徒歩で三十分。
先に佐野の実家に帰って顔を見せてやれと何度も窘めたが、一向に聞きやしないのだ。突然の帰国時には、いつも真っ直ぐに遙のもとにやってくる。大体が深夜遅くか明け方、渡した合鍵で勝手に家に入ってきては、遙のベッドに潜り込んで眠っているのだ。
「起こせって言ってるのに」
慎重に、静かに、ゆっくりと腹から腕を解いて、正面から向かい合う。最初はびっくりして朝から大声を上げてしまったこともあったが、もう慣れた。目覚めて力強い腕が体に巻き付いているのが視界に入ると、なんとも言えない安心感に包まれる。同時にいつも思うのだ。まだ愛されている。
「、ハル……」
身じろいだ気配に目を覚ました凛が、夢うつつに名前を呼んだ。うん、と頷いて目を合わせると、やがて覚醒した彼がふっと笑った。
「ハルの匂いする……」
「おれの部屋だからな」
おとがいに頰を擦り寄せて、確かめるように匂いを嗅がれるのがくすぐったいが、心地よかった。お返しに耳の後ろに鼻を擦り付けてやると、それは嫌がられた。勝手なやつ。
「っ痺れた……」
一晩中腕枕をしていた右腕が、痺れを切らしているらしかった。あたりまえだろ、と遙は呆れたが、これも帰国時のお約束のようなものだ。言っても聞かずに懲りず繰り返されるのはもう、何度目だろうか。
「おまえの腕は筋肉質で硬いんだから、こっちも首が凝る」
うっせー可愛くねーな、と軽く睨んできた彼の腕から頭をずらして、そっと胸に顔を寄せる。寝起きであたたかい体温と規則正しい心臓の音が安心する。
「なあ、もっとぴったりくっ付けよ。感覚ねーから片手じゃちゃんと触ってんだかよくわかんねえ……」
痺れた右手を忌々しげに見て、左手だけでもういちど遙の腰を引き寄せながら、切実な表情でそんなことを言う。凛は寂しがりで愛したがりだ。側にいる時はいつだって体のどこかで遙に触れていたがる。つんけんしながら実のところそれを嬉しいと思っている自分も、たいがい天邪鬼だと遙は笑った。
卒業後すぐに渡欧を決めた凛と、岩鳶に残ることを決めた遙の道は、三年前に違えた。遙はもうずっと凛を好きだったし、凛も同じ気持ちだと言ってくれたから、2人は確かに恋人同士だったけれど、離れてしまえばそれは長くは続かないだろうという漠然とした予感が遙にはあった。
同じ未来を見られないことに加え、物理的な距離ができてしまえば、それが別れの決定打になると思ったのだ。十二歳の時にも別れを経験したが、あの頃は子どもだったから、またいつか会えると信じて疑わなかった。彼を恋しく思う気持ちは確かにあったけれど、さみしさより未来への希望の方が大きかった。
今は違う。凛の未来と遙の未来は交わらない。世界に向かって羽ばたく彼を、眩しい背中を、遙は追わないと決めた。それはさよならと同義だと覚悟していた。ここで待ってる、と無理やり笑ってみせた自分の顔は、きっとひどく歪んでいたのだろう。涙をこらえる遙にキスして、凛は言った。
(俺が夢を叶えたら、その時は――)
「ハル……」
腰を抱いていた手が、不埒な動きを始めている。背骨をなぞり、腰骨を愛撫して、ゆっくり指が差し込まれる。あ、と思わず声を出した。長い指が中を探る。第1関節、第2関節までは難なく。だけど、それ以上は。
「狭ぇ……」
安心したような、寂しさを隠せないような声で凛がつぶやいた。んん、と悩ましげに息を吐きながら、遙は「馬鹿」と彼をねめつけた。
――誰の痕跡もあるわけがない。おれが許すのは、おまえだけなんだから。
それでも毎回こうやって遙の中を探る彼は、まだ遙が自分だけのものだと確信したいのだ。誰のものにもなっていないことを確かめて安堵する、凛の深い執着と子どものような独占欲を、やはり遙は嬉しいと思う。まだ愛されていると、実感できる。
シンデレラも白雪姫もいばら姫も、子ども向けの童話はハッピーエンドであるべきだ。だけどあの話だけは好きじゃない。魚の尾ひれを持つ女。愛する男の命を救っておきながら、男の幸せのために自ら命を絶った女。自己犠牲による愛の昇華だとかなんとか、馬鹿馬鹿しい。女は男の喉笛を短剣で掻き切って、返す刀で自分も後を追えば良かったのだ。
そんなことをいつか話したら、彼は同意しかねるとでも言うように眉をしかめてこう言った。
(いやそれってハッピーエンドか?)
本格的に体を暴き始めた凛の、少し短くなった赤い髪を指で梳きながら、遙は身をよじって耳元でささやいた。
「……愛してるって言って」
途端にがばっと顔を上げた男は、わずかに逡巡する素振りもなく、遙の唇に文字通り噛み付いた。
「愛してる。愛してる、ハル。ずっと俺のものでいてくれよ」
――いつまで?
――いつまでも。
ではいつか愛を裏切られたらおまえを殺してもいいか、とは聞かなかった。
まだ愛しているから。