プロポーズやり直し

「俺が明日死んだらさ」

遙は今まさに湯を注ごうとしていた手をぴたりと止めた。そうでなければ沸かしたての湯が手指を直撃しているところだった。危なかった。急須を手元に下ろして、気を取り直して彼はつい今しがた、不吉きわまりない言葉を口にした男の顔を見た。無駄に整った顔は、出逢った頃より少し大人になっていたかもしれなかった。
凛はソファに背中を預けて天井を仰いでいた。言い換えれば惚うっとしていた。心がどこか遠くにあるような雰囲気だった。
彼はとても疲れている様子だった。事実、息吐く暇もないほどあちこち飛び回って、見た目だけなら細身の体を(ずいぶん筋肉質でだいぶ頑丈ではあるが)騙して苛めぬいて、慣れない土地で数週間を耐えに耐え、使い古したキャリーケースとよれよれになったスーツでつい先ほど帰ってきたばかりなのだ。心底疲れ切っているに違いなかった。
「まあ急でびっくりするかもしんねーけどさ。あんま悲しまないで……つっても親父の時でわかったけど家族はなんだかんだで色々やることあるから、そうそうゆっくり悲しんでる暇もねぇだろうけどさ。まああん時は俺もガキだったから、おふくろ見ててそう思っただけなんだけど。まあなんだ、葬式は賑やかにやってくれよ。知り合いとかダチとかぜんぶ呼んでさ。来た奴みんなにたらふく食わして飲まして、悪口大会でもなんでもいいから、たくさん俺の話してくれ。そんで、愚痴も文句もいい加減出尽くしたら、親父の居る海に景気よく撒いて、それからなるべく早く忘れてくれ。思い出さなくていい。悪いと思わなくていいから、いつかは誰か違う子を見つけてくれ。そうだな、可愛くて、気だてが良くて、面倒見のいい子、江みたいな女の子がいいな。いつも笑ってて、とにかく可愛くて、守ってやりたくなるような子。間違いなく江だな。そんなん他に居るかな。居るかどうかは別としても、もし奇跡的に江みたいないい子に出会ったら、その子といっしょに幸せになってくれ。子どもも生まれたりなんかしてさ。男でも、女でもいいな。名前は何がいいかな。お互いの名前の一文字取って、とか、そんなありきたりなやつ。その子が大きくなったら二人ともちょっと歳とって、でもずっと仲いいままでさ。手ェ繋いで散歩して、縁側で茶ァ飲んだりして、いつも二人で笑ってて。時々は孫が遊びに来たりして……。なんだろな、そんな絵に描いたみたいな人生……」

目線は天井を向いたまま、こちらを一度も見ることなく、凛はべらべらと喋っていたが、突然ふっと黙り込んだ。自分で馬鹿馬鹿しくなったのかもしれなかった。
彼は意図せず夢から覚めたように、ぽつりとつぶやいた。

「な訳ねーわ」

少し時間を置き過ぎたらしい。急須の中で茶葉は色を出しきっていた。濃すぎる緑が注がれたぬるい湯呑みを見詰め、遙は心の中で「台無しだ」と嘆いた。それくらいにはありふれた一幕だった。

「俺がもし明日死んだら、涙が枯れるまで泣いて、ずっとずっと俺のことを考えて、何をするにも思い出して、絶対に一瞬も忘れないでくれ。他の誰のことも好きにならないでくれ。何があっても絶対に、俺以外の誰も、何も、お前の心に入り込ませないでくれ。そんで、出来るなら、許されるなら、ハル。お前も一緒に死んでくれよ」

遙は盆に湯呑みを乗せて、静かに歩いた。ソファの前まで来ると、そこで初めて凛が目線だけでこちらを見た。ローテーブルの上に盆を置いて、床に膝をつくと、肘置きにだらんと所在無げに置かれていた手をとって、疲れきった彼の耳もとで囁いた。

「お帰り、凛」

凛は遙の手を握り締めて、やがて腰に腕を回してきつく抱き寄せると、その首筋に鼻を埋めて、腹の底から息を吐いた。遙の傍で、やっと呼吸ができた気がした。

「……ただいま」