七組の七瀬遙が人魚だというまことしやかな噂が凛の耳に入ったのは、鮫柄学園に転入していくらも経たない四月の終わりのことだった。
「何組の、誰だって?」
くだらねぇこと言って担いでんじゃねーぞ。凛の鋭い眼差しを軽く受け流して、クラスメイトは「だからぁ」と軽薄に笑った。
「七瀬だよ、七瀬遙。松岡お前、こっち来たばっかで知らないだろ。とにかくスゲー美人で、無口だし、めったに笑わないけど、なんつーか得も言われぬ色気があるっつーか。みんな狙ってんだぜ。な、興味あるだろ?」
凛は呆れて物も言えない、という顔で深く溜め息を吐いた。実際どうかしている。何が「スゲー美人」だ。ここは全寮制の、れっきとした男子校なのだ。
「水泳部の部室まで、東棟通らなきゃ行けないだろ。五組からは東だから、途中で七組も見れるぜ」
さあさあ、とクラスメイト(名前もまだ覚えちゃいない)はご機嫌な様子で、鼻歌を歌いながら教室を出た。凛は半ば引っ張られるようにして歩きながら、軽蔑したように口を開いた。
「男のケツ追っかけるとか、お前らホモか?」
「で、出た~!侮蔑に充ちたそのセリフ!新参は決まって皆そう言うんだよな」
まあ見てろよ、お前もすぐにそんな口叩けなくなるぜ。彼は笑ってそんなことを言って寄越した。凛は再び大きく溜め息を吐く。
「……で、何で人魚?」
「”七瀬の七不思議”つってさ。弁当には毎日必ずサバが入ってるとか、A定食がサバ味噌の日だけふらりと学食に現れるとか、駅前のスーパーがサバセールの日は音も立てずにいつの間にか教室から消えるとか」
「ただの無類のサバ好きじゃねーか」
「いやいや」
クラスメイトは途端に真面目な顔つきになった。
「水泳部の奴が見たんだと。深夜、誰も居ないプールで泳ぐ七瀬の姿を。その下半身は、真っ青な鱗に覆われた尾ひれだったとか……」
これに付き合って部活の開始時間に間に合わなくなるのはご免だ。適当に放っぽって行こう、と凛は決意した。
鮫柄学園はクラス編成が特殊なことでも有名である。
凛のように他校(凛は帰国子女である)からその才能を見込まれて転入してきた、飛び抜けて優秀な連中が属するのは一組、学年トップクラスだ。当然ここには成績優秀、スポーツ万能の、誰もが一目置くような人材が集まる。二組以下はわかりやすく成績順である。よって三組までが所謂選抜クラスとなり、四組以下は通常クラス、はっきり非選抜とも呼ばれている。
七組は最下位クラスだ。非選抜の中でも最も低いレベルと揶揄されるそんな落ちこぼれクラスに、誰もが狙うほどの美人が居るという。正直、興味を引かれない訳ではなかった。
西棟を出て中庭に続く渡り廊下を抜け、五組以下の教室が並ぶ東棟に入る。心なしか擦れ違う生徒が浮付いているように見えた。選抜クラスのように常に成績で争う必要がないため、生徒間にギスギスした雰囲気がなく、自由にのびのびやっているらしかった。そういう意味では少し羨ましい環境とも言える。
「この向こうが七組だよ」
そう言ってクラスメイトが顎で示したのは、廊下の一番奥の教室だった。
廊下側の窓から教室を覗くと、中に居た生徒が話しかけてきた。
「なんだよ選抜組じゃんか。ま~た七瀬を見にきたのかよ」
「おー、ムッサい男どもに囲まれてるとな、定期的に清涼剤が必要なわけよ」
二人のやり取りは軽く、成績に隔たれてはいても生徒間の仲は割と良好らしい。おい早くしろ、と視線で急かすと、クラスメイトはニヤつきながら「あ・そ・こ」と指を差した。
示された先、窓際の後ろから二番目、頬杖をついたその姿を見て、凛の体に電撃が走った。
――つんと尖った赤い唇、ほっそりとした喉、鼻筋はスッと通っていてやや高く、憂いを帯びた瞳は海を映したブルー。健康的に焼けた肌、筋張っているが細い指、烏の濡れ羽色のような黒髪はしっとりとして艶がある。全体的に――そう、七瀬遙は間違いなく美しかった。
「か、わぃ……」
自分の声が掠れているのがわかった。隣でクラスメイトが「それ見たことか」とばかりに顎を上げてふんぞり返っているが最早そんなことはどうでもいい。彼の人からほんのちょっとも目が離せない。ずっと見ていたい。釘付けになった視線に気付いたのか、窓の外を眺めていた七瀬がふとこちらを振り向いた。
「!!」
真正面から目が合った。七瀬は凛を一瞥すると、興味もなさ気にツンと素気無くそっぽを向いてしまった。
「ぎゃはは!松岡、振られてやんの」
オットコ前が無残!残念!クラスメイトが腹を抱えて笑いだした。凛は呆気に取られて、向こうを向いた七瀬の後頭部を見つめた。途端に腹の底から言いようのない怒りがムカムカ沸いて来た。――なんだよ、あいつ。ちょっとぐれー可愛いからって、お高く留まりやがって!
「前言撤回!可愛くねえ!」
七組の生徒が哀れな者を見る目でこちらを見た。誰かがヒュゥ、とからかうような口笛を吹いた。隣でクラスメイトが「気持ちはわかるぜ」と慰めるように肩を叩いた。
***
「中学の時は水泳やってたらしいんだよ」
チームメイトはそんなことを言った。
「けど水泳部に所属してたのは一年の時だけで、すーぐ辞めちまったらしい。その後しばらく岩鳶にあったスイミングスクールに通ってたとか聞いたけど、そのうちそこも潰れて。それからは見かけなくなったって」
「詳しいな。有名だったのか?」
「わりとな。小学校までは結構いろんな大会に出てて、総なめだったみたいだぜ。部長が何度か勧誘したんだけど、競泳には興味ないからって断られてさ。なら何で水泳強豪校の鮫柄に来たんだっつー話」
お前ら次100メートル4本いくぞ!サボってんなよ!プールサイドから部長の怒鳴り声が飛んできた。色んな意味で熱くて正直ウットーしいけど尊敬する先輩だ。彼が見込んで声をかけたということは、それなり以上の実力があると考えて間違いない筈だった。
「人魚だとかいうアレは?」
「あー!あれな」
チームメイトはゴーグルを下げながら噴き出した。
「こないだ一年が忘れ物取りにプールに入った時に見たとか言って。深夜だぜ?暗いし、寝ぼけて見間違えたに決まってるけど、相手が七瀬だからやたら面白がられてさ。ブルーの尾ひれを持つ水が恋しい寡黙な人魚姫!何つーか、ちょっとロマンチックじゃねえ?」
男じゃねーか、と凛は心の中で独りごちた。
ただ確かにロマンのある話ではある。そこに姫は存在しないにしてもだ。
「僕、見たんです」
似鳥愛一郎は眉を寄せてそう言うと、きゅっと唇を引き結んだ。
「七瀬さんは人魚です。誰も居ない夜のプールを気持ち良さそうに一人……いや、一匹で、泳いでたんです。青い尾ひれを揺らして、そう、そこの、ちょうど3コースです。遠くからですけど、間違いなく七瀬さんでした。僕、泳ぎは下手くそですけど嘘は言いません、信じてください松岡先輩!」
***
松岡凛は、自慢する訳ではないが見た目には少々(どころかかなりの)自信がある。それは幼少のみぎりより彼のコンプレックスであった女の子のような名前すらも、何らハンデには成り得なかったことからも証明される事実である。
――凛くんってまるで王子様みたい
五年生の時、隣の席だった女の子は頬を赤らめてそう言った。体育祭のフォークダンスでは誰もが凛のペアになりたがった。バレンタインは大きな紙袋が三つ一杯になった。誕生日には手作りクッキーと手編みのマフラーを貰ったし、クリスマスの二週間前には必ず誰かと約束が出来た。中一の夏に告白されて初めて付き合った子は、学年で一、二を争う可愛さだった。
女の子とは総じて可愛いものである、と凛は思っている。それは留学先のオーストラリアでも変わらなかった。明るく健康的で、笑顔のとびきり可愛い子が凛は好きだ。ついこの前までのガールフレンドもそうだった。これからもそんな子を好きになるだろうと思っていた。
なのに現実はどうだ。
「また来たのかよ松岡」
七組の、今や顔見知りになってしまった男子生徒(仮に摸部田とする)は呆れた顔でそう言った。お前もたいがい懲りないな、と苦笑しながらも、彼は今日も凛を窓際の後ろから二番目、七瀬遙の席まで通してくれた。
「……よぉ」
目の前に立つ凛を横目でちらりと一瞥して、七瀬はいつものようにそのまま視線を外に戻した。まったく相手にされていなかった。クラスの連中も最初こそ面白がっていたが、今となっては興味も失せたのか、昼休みのごく当たり前の光景として処理されている。七瀬に惚れた男は大体こうなるのだ。必死でアタックして、そのうち勝手に心折れて去って行く。
けれど凛はどうしても諦められなかった。女の子は可愛い。笑顔のとびきりキュートな子が好きだ。七瀬はいちども笑ってくれたことはない。ちっとも可愛くない。けど、それでも。
「お前、ウチの部に来いよ」
凛の言葉に、七瀬はふぅっと溜め息を吐いた。
「行かない」
「昔は水泳やってたんだろ。なら今も泳ぐことは好きなんだろ?夜中にこっそり忍び込んだりしねーで、明るいうちに堂々と泳げよ。部長もお前なら歓迎するって言って」
る、とそこで凛は言葉を飲み込んだ。七瀬がぎろりと鋭い目付きで睨んできたからだ。
「人聞きの悪いことを言うな。勝手に入ったんじゃない、ちゃんと部長の許可を貰った。お前のとこの一年が勝手にびっくりして、勝手に騒いで、勝手に噂にしただけだ」
凛は少なからず驚いた。許可、取ってたのかよ。そこまでして泳ぎたかったのか?なら何で、
「七瀬お前、」
「うるさい」
凛の言葉を遮るようにして、七瀬は立ち上がった。そのままつかつかと足早に歩き出すと、教室を出る間際に一度だけ振り向いて吐き捨てるように言った。
「もう来るな」
予鈴が鳴るまで、凛はその場に立ち尽くしていた。
***
「自由に泳ぎたいんだそうだ」
御子柴はそう言うと、凛に向かって肩をすくめて見せた。
「競い合って泳ぐことがどうしても好きにはなれないんだと。だから水泳部には入りたくない、けどここはプールが県内でいちばん大きいから選んだ、練習のない時に5分でも10分でもいいから泳がせてほしい、と言われてな」
「……よく監督の許可が出ましたね」
「いや?駄目に決まってるだろう、そんなもん。俺の独断だよ。しかし似鳥に見られたのはまずかったな。あれで無断使用者がいたのかって話になって、誤魔化すのに苦労したんだ」
凛は思わず目を瞬かせた。
「何でそこまでして、部長はあいつを泳がせたんですか?」
「泳ぐ楽しさを思い出したら、七瀬君も気が変わって入部してくれるかもしれんだろ」
俺はまだ諦めちゃいないぜ、と笑って、彼はにゅっと右手を差し出した。突然のことに驚いて思わず後ろに一歩引いてしまってから、凛は慌てて自分も手を出した。手のひらの上にぽとりと落とされたのは、プールの入り口の鍵だった。
「練習後、9時ぴったりに来る。その前に鍵を開けておいてやってくれ。きっかり一時間で出て行くという約束になってるから、施錠まで頼むな。ただし、誰にも見られたくないそうだから、くれぐれもバレないようにな」
「は!?」
思わず素っ頓狂な声を上げると、御子柴はニィッと歯を見せて笑った。
「小学生の時に見たきりだが、綺麗だぞ~七瀬君の泳ぎは!一度、お前も見てみるといい」
手のひらの中の鍵を握り締めて、動揺を隠せないまま凛は尋ねた。
「あいつが、……人魚だって噂は、まさかですけどそんなことは」
背中を向けて去りかけていた御子柴は、首だけ振り向いて水泳部期待のエースを見た。
「松岡お前、見かけによらずロマンチストなんだな」
***
夕食後、寮の部屋に戻って一心不乱にストレッチをしていると、同室の似鳥が心配そうに声をかけてきた。
「松岡先輩、あの、無理しないでください。今日の練習もかなりキツかったですし、その後で自主練までやってたんですから、少しは体を休めることも」
言葉は耳を素通りする。横目で時計を確認すると、午後8時45分になるところだった。そろそろか、と立ち上がると、薄手のパーカーを肩に引っ掛けた。
「走ってくる」
「え!こんな時間からですか!?」
消灯時間までには戻る、と言い置いて、凛はさっさと部屋を出た。似鳥の「先輩!」という声はドアに阻まれて消えた。
鍵を開けて中に入ると、当然のことながら中には誰も居なかった。明りのない夜のプールは、昼間の喧騒が嘘のようにシンと静まり返っていた。どうしようかと迷って、とりあえず入り口すぐの物陰に身を隠す。かなり窮屈だが、息を潜めてジッとしていればまず見つかることはないだろう。そこまで考えてから、凛は「いやいや」と頭を振った。
(なんで俺が隠れなきゃなんねーんだ)
そもそもこのプールは水泳部の所有だ。それを部外者が無償で貸して貰っておきながら、感謝こそされ礼の一つも言われて然るべきで、ましてやこそこそ隠れる必要がどこにある。
『くれぐれもバレないように』
どうにも引っ掛かる言葉だ。七瀬は誰にも見られたくないらしい。何をだ?泳いでいる姿を?馬鹿馬鹿しい。
(テキトーに泳がしてから、帰りがけにでも捕まえるか)
そして今度こそ水泳部に入れと説得しよう。こんなややこしい、面倒くさい真似をしなくとも、泳ぎたいならいつだって泳げばいいのだ。小学校時代には大会を総なめにしていたという七瀬は、きっと水の中でも綺麗なんだろう。そんなことをぼんやりと思った。お前の泳ぎを見てみたい。出来ることなら間近で一緒に泳ぎたい。だから、
ガタン、と音がした。凛は息を詰めて、ゆっくりと入り口に視線を移した。
扉を開けて七瀬が入ってきた。ラフなシャツに、指定のジャージを履いている。凛の潜む物陰を通り過ぎる瞬間、ふわりと石鹸の匂いがした。ああ風呂に入ってきたのか、と思った。思ってからすぐ、今からプールで泳ごうってのになんで先に風呂に入るんだアホか?とも思った。そんな凛の内心の突っ込みにもちろん気付くことなく、七瀬は飛び込み台の上に立つと勢いよく着ていた服を脱ぎ捨てた。
(!!)
引き締まった腰とすらりとした手足に、バランスよく付いた筋肉。しなやかな体が、月明かりに照らされて輝いていた。眼前に晒されたその肉体に、凛はただ声もなく見とれた。
――きれいだ、七瀬。
ばしゃん、と大きな水飛沫をたてて、七瀬がプールに飛び込んだ。
流れる水に身を任せるように、水と一体になったように。一切の抵抗をせず、ただ受け入れるように。水の切れ間に体を滑り込ませて、波がその体を押し上げるように。生まれた時から水の中にいたと言われても、今なら信じられるだろう。それほど自然で、自由な泳ぎだった。
凛は全身が目になったかのようにそれを見つめていた。一瞬たりとも目を離したくなかった。
――七瀬、七瀬。お前はこれほどの才能を持ちながら、競い合うことが好きではないと、それだけの理由で全てを無にしてしまうのか。だとしたら何て愚かなことだ。お前は何もわかっちゃいない。お前の持つそれが、俺がどれだけ欲しかったものか。いつかそんなふうになれたらいいと、何度も夢見ていたものが、今目の前にあるというのに。それを惜しむことなく、あっさり殺してしまうというのなら、俺はお前を心底憎むぜ。七瀬、七瀬……
向こう側まで行き着いた七瀬が、軽やかなターンを決めて戻ってきた。凛は瞬きもせずに見つめていた。なんのことはない、自分は七瀬に惚れているのだ。認めてしまえば気持ちはずいぶんと楽だった。これは二度惚れだ。陸の上で惚れた相手に、水の中でもう一度恋をしたのだ。
ほそい指先が壁にタッチして、ぱしゃん、という軽い飛沫が上がった。綺麗だったと、美しかったと、素晴らしかったと、彼に伝えようと思った。伝えずにいられなかった。そう思って口を開きかけ、立ち上がりかけた凛の目に、とつぜん眩しい青が飛び込んできた。
下半身をびっしりと覆い尽くす鱗。鮮やかすぎる程に青いそれが、まごうことなき七瀬遙の尾ひれであると、凛が理解するまでには時間がかかった。
***
「あれ、今日も七瀬詣でに行かねーの?」
冷やかすように笑いながらかけられた声に、凛は答えないまま無言で弁当を掻き込んだ。クラスメイトの彼は隠しきれない好奇心と大いなる同情心と、それから僅かばかりの憐れみのこもった表情を浮かべてみせた。
「まあ、お前はよく持った方だぜ」
――いわゆる高嶺の花ってやつよ。遠くから見てるのが一番いいんだよ。うっかり声かけたり手を伸ばそうもんなら、底無し沼に引き入れられちまう。散々もがいて苦しんだ挙げ句、何にも返って来やしないんだ。
「短剣でグサリとやられないだけまだマシだけどな」
凛は答えない。黙って肉巻きアスパラを噛み締めた。好物のはずが、少しも味がしなかった。
プールの物陰に隠れて密かに七瀬遙を見たあの夜から、三日が経っていた。
ざばりと水から上がった七瀬の下半身には、すらりとした二本の足が伸びていた。さっき見たあれは幻だったのか?と凛は激しく混乱した。いやそんなはずはない。確かにこの目で見たのだ。見間違える訳がない。青い鱗のきらめく尾ひれは、今もはっきりと目に焼き付いている。そうこうしているうちに、着替えを済ませた七瀬がすたすたと歩いてこちらにやって来た。凛は再び息を潜める。傍を通り過ぎる時に気が付いた。七瀬の体も、髪も、ほんの少しも濡れていないことに。
(タオルも使ってねぇのに)
艶めく黒髪をなびかせて、七瀬は来た時と同じように静かに扉を開けて出て行った。
それから毎晩のように、凛はプールで七瀬を待った。
同じ物陰に隠れて、じっと息を潜めてその姿を観察する。七瀬は毎晩同じ時間にやって来た。水に入るのを待ち切れないかのように、着ていた服をそこらに脱ぎ捨てて勢いよく飛び込む様子は、どこかほほ笑ましくすらあった。華麗で優雅な泳ぎはいつだって凛を魅了した。我を忘れて見入ることが常だった。しかし最初のターンを決めて戻って来る頃に、ハッと気付いて凛は心持ち体を乗り出した。彼が泳ぎに夢中になったその瞬間、両の足が跡形もなく消え、代わりにそこに現れたもの。凛は今夜も必死に目を凝らしてその姿を捉えた。
七瀬遙の下半身は、やはり間違いなく青い鱗に覆われていた。
昼間の教室で七瀬に声をかけることはなくなった。会えば問い詰めてしまいそうだった。
――お前は人魚だ。なぜここにいる。どこから来た。何の為に、お前は、お前は――
凛は首を振る。似鳥の二の舞になるのはご免だ。七瀬の正体を吹聴して晒し者にしたい訳じゃない、断じて。ただ、未だに心の整理がつかないでいる。七瀬遙は人魚だ。それはもう疑いようもない。ひた隠しにしていて尚、水を恋しがるのは、人間と同じ姿をとって学園に居るその理由は?何が目的なんだ?お前は一体何がしたいんだ……?
凛が七組を訪れなくなってから一週間目、昼休みの一組に突然の来訪者があった。後方の扉からその姿を見せた七瀬遙は、ぽかんと口を開けて凝視する凛を見て言った。
「話がある」
クラス中は一気にざわめき立った。あの七瀬が自分から松岡に会いにきた!深窓の令嬢がついに陥落か!?青天の霹靂とでも言うべきか、凛は目の前に彼が居るということが俄かには信じられなかった。ただ、こちらを見る七瀬の何かを覚悟したような瞳の色に、今日こそはっきりさせなければならない、と心中で密かに決意した。
***
「おまえ、見たな」
西棟と東棟を結ぶ連絡通路の脇、中庭のさらに奥まった場所で対峙して、七瀬は開口一番そう言った。結論から突き付けられて、凛はぐっと息を呑んだ。
「な、にを」
「おれの正体だ。今さらとぼけても無駄だ。毎晩、プールの物陰から盗み見ていただろう」
とたんに拍子抜けた。
「気付いてたのかよ……」
なんてことだ。それじゃ俺はただの間抜けな馬鹿じゃねーか。
「鼻が利くんだ。だから最初の夜から誰か居るな、とは思っていた。だけど久しぶりに水に入れると思ったら、どうでもよくなって。それでも、何か仕掛けてくるならそれなりに応えるつもりでいたけど、おまえ何もしてこないし。結局時間いっぱい泳いで部屋に戻るまで、なんにもなかった」
それは俺がお前の泳ぎに見惚れてたからだ、とは流石に言い出せなくて、凛は黙ったまま七瀬を見た。白い詰め襟をきっちり上まで留めているせいで、肌の露出はほとんどない。夜のプールで見せた美しい肉体は禁欲的な制服に包まれて、今や少しの隙もない。けれど袖口からわずかに見える手頸にこつりと浮き出た骨、すらりと細い指先が、凛に間違いなく夜の七瀬の姿を思い出させた。
「翌日にでも糾弾されるのかと思ったら、教室にも来なくなった。なのに夜になったら必ずプールでおれを見ている。おまえの考えがまるでわからない。どういうつもりなんだ、松岡」
名前を覚えられていたことに、場違いだとは知りながら凛は感動を覚えた。何の興味も示さなかった七瀬が、自分を居ないものと思っていた訳でなくちゃんと認識していたのだということが、どうしようもなく嬉しかった。
「……お前のことを知りたいんだ」
七瀬は正面から凛を見つめた。何かを探るような瞳だった。
「お前が人魚だとか、人でないとかはもうどうでもいいんだ。ただ、あんなに完成された、ずば抜けた才能を持っているくせに、泳ぐことが誰より好きなくせに、どうしてそれを隠しているのかがわからねぇ。そうしなけりゃならない理由があるってんなら、教えてくれ。夜のプールで泳ぐお前は誰より綺麗だ。才能を殺すには勿体なさすぎる。俺はお前の泳ぎをもっとたくさん、もっと近くで見ていたい。なあ、七瀬!」
凛の言葉に、七瀬はしばらく目を瞬かせていたが、やがてフッと僅かに口元をほころばせた。
(――あ、可愛い)
そう思うより早く、七瀬が唇を開いた。
「わかった」
***
――子どもの頃は、なんにも考えずにただ、泳ぐのが楽しくて仕方がなかった。水がおれの体と一つになるのがはっきり感じられた。水に包まれて泳ぐことが好きでたまらなかった。おれにとっては息をするのと同じように、水に浸っていることが当たり前だったんだ。
父さんにも、母さんにも尾ひれはない。いつからだったか、物心ついてしばらくして、水の中にいると体に鱗が浮き出てくるようになった。おれは驚いて、すぐに母さんに見せた。母さんがばあちゃんに相談して初めて、ばあちゃんの血筋に何代も前に人魚がいたことがわかったんだ。もう生まれてくることはないだろうと思うほどに血は薄まっていたけれど、何かのきっかけでおれが覚醒してしまったんだろうと。ばあちゃんはおれに言った、「絶対に人に尾ひれを見せてはいけない」と。ばあちゃんの何代も前、海で捕らえられた人魚は、その肉を喰らうと傷が癒えるとか、生き血を飲むと不老になるとか、そんな言い伝えのせいで生皮を剥がされ、血を抜かれ殺されたんだと。おぞましい話だよな。でも、おれがそうならないとは限らない。
いつの間にか、おれが泳ぐと周りが騒ぐようになった。スピードだとか、型だとか、そういう理由で褒められることが多くなって、気が付けば色んな大会に駆り出されていた。おれはいつだって好きに泳いでいたけれど、出れば優勝することが当然になっていった。最初は何の問題もなかった。だけど、そのうちおれは気付いたんだ。おれのそれは、才能なんかじゃない。海で泳ぐ者の、生まれ持った能力だ。それは人の力を超えたものだ。人間と同じように競い合っていいものじゃない。
おれに負けて、たくさんの奴らが泣くのを見た。叶わないと、悔しいと、泣きじゃくってそのまま水泳を辞めてしまった奴もいた。おれはそれが辛くてたまらなかった。おれのせいで、この力のせいで、人を傷付けてしまうことが悲しくて仕方がなかった。
「……友達は、いなかったのか」
凛が言葉を挟んだ。七瀬は静かに息を吐いた。
――居たよ。生まれた家が隣同士で、いつも一緒に育った幼馴染みだった。おれの尾ひれを初めて見たときも「きれいだね、ハルちゃん」と笑ってくれた。そいつのお陰でおれは孤独にならなくて済んだ。そいつの前でだけは、本当のおれの姿をさらすことができた。
尾ひれを隠して泳ぐのは難しいことじゃなかった。でも、要求は次第に大きくなっていった。小五の時だった。周りの期待に応えるスピードを出すために、がむしゃらに泳いで、そのうちふっと糸が切れたように気が緩んだことがあった。そうなるとおれはもう駄目だった。思わず尾ひれが出てしまったんだ。それを見て真っ青になったコーチと、チームメイトの叫び声を今も忘れられない。
おれは転校することになって、そいつとはそれきりだ。最後にたくさん泣いてくれた。今もきっと元気でやってると思う。いつか会う日もあるかもしれない。それでいい。
そこで七瀬はふと話すのをやめて、顔を上げた。凛は終始、神妙な面持ちで話を聞いていた。それを好ましく思う気持ちが確かにあった。
「……黙ってるつもりだったけど、ここまで来たらもういいか。小六の大会で、おまえを見たよ、松岡。驚いたか?そうだろうな。予選を一位で通過して、おまえは周りにとびきりの笑顔を見せていた。今でもはっきり覚えてる。プールサイドで、おまえはまぶしいくらいに輝いていた。おれは、この笑顔を絶対に曇らせたくないと思ったんだ。
だから辞退した。腹が痛いふりをして、逃げるように会場を飛びだしたんだ。それ以降、おれは大会には出ていない。ずるい?何がだ。勝手に試合放棄したことが?そうだろうか。おれは今でもあれが正解だったと思ってる。おまえがあれからもずっと水泳を続けて、今おれの目の前にいることがすべてだ」
中学に上がって、地方の弱小チームに入ると、そこにも遙を知っている人間がいた。大会の度に仮病を使っていたものの、当然のことながら不信感を抱かれ深く失望されて、結局は居辛くなって遙は退部した。競泳とはそれっきりだった。どうしても水が恋しくなると、遙はいつも浴槽に水を張ってその中に浸かった。昔住んでいたあの家なら、すぐそばに海があったのに。
「だから高校は、大きなプールのあるところへ行こうと思った。鮫柄の部長がまだおれを覚えていたのは予想外だったけど、でも彼はとても親切な人だった。練習後のプールを使うことを許してくれた。あんな騒ぎになってもまだ。
……おまえにも感謝してる、松岡。黙っていてくれてありがとう。でも、それも今日までだ。もう終わりにする。だから、頼む。あと一度だけ、今夜だけ、おれを自由に泳がせてほしい」
***
午後8時45分、いつものように部屋を出て、プールの鍵を開ける。しかし、中に入ることはせずに、そのまま扉に背を向けて来た道を引き返した。間を置かず部屋に戻ってきた凛を見て、似鳥が驚いたように言った。
「松岡先輩、今日はロードワーク、ずいぶん早かったんですね?」
「……気分が乗らねぇ」
そう言ってベッドに腰掛けると、凛は深く溜め息を吐いた。問題集を抱えた似鳥が、おずおずと傍へやって来た。
「あの、先輩。ご迷惑でなかったら、その、勉強を見ていただけたらなって……」
「いいぜ」
本当ですか!?と顔を輝かせた似鳥を促し、自分も立ち上がって机に向かいながら、凛はふと七瀬はもう来ただろうか、と考えた。
隠れて覗き見する必要がなくなったのだから、堂々と見てやればいいのだとわかっていて、どうしてもそういう気分になれなかった。
(今日で終わりにするって、何だそれは)
お前の泳ぎに惚れたのだと、だからずっとそれを見ていたいと、お前の正体が人魚でも、半漁人でも、なんだっていいのだと、そう伝えたはずだった。なのにその上で、七瀬はもうプールには来ないと言う。ふざけるな。諦める必要がどこにある。それに何より、昔の――小六の大会で、七瀬が知らぬ間に自分との勝負を放棄していたという事実が、どうしようもなく凛を苛立たせた。
――もしあの時俺たちが一緒に泳いでいたら、一目お前の泳ぎを見ていたら。俺は絶対に忘れたりしなかった。お前の大切な幼馴染みのように、お前を綺麗だとただただ称賛しただろう。友達にだってなれた。青い鱗をまとった見事な尾ひれに感嘆し、心の底から褒め称えこそすれ、決して恐れたりしたはずがない。俺たちはこの五年、きっとお互いに高め合うことが出来た。そうであるべきだったんだ。七瀬、俺はお前を。
「先輩?」
似鳥の声にハッと気付いて、凛は壁掛けの時計を見た。午後9時35分。七瀬がプールを出て行くまで、あとたったの25分しかない。
ガタン!と大きな音をたてて立ち上がると、凛はベッド傍に投げてあったパーカーを引っ掴んだ。
「走ってくる!」
それだけ言って早足で部屋を出ると、中で似鳥がまた何事か叫んでいたが、やがてそれも聞こえなくなった。
***
遙はシンと静かな暗闇のプールに一人、揺蕩うように浮かんでいた。水はなめらかで心地よく、許されるならずっとこうしていたかった。
プールの鍵は今日も開いていた。けれど、いつもの場所に凛の気配はなかった。最後だから一人にしてくれたんだろうか。それとも勝手な言い分ばかりで怒らせてしまったのだろうか。どちらにしても、彼はもう自分には会いたくないのかもしれない。そう考えると少しだけ胸が痛んだ。
12歳のあの日、大会で見た凛のまぶしい笑顔を、遙は今も忘れられない。鮫柄に入学して二年目の今年、突然クラスにやって来た男の顔を見て驚愕した。ひと目でわかった。二度と会うことはないと思っていた、成長した彼がそこにいた。内心で激しく動揺したものの、遙のポーカーフェイスは完璧で、逸らした頬が赤く染まっていたことに誰も気が付かなかった。
(松岡……凛、)
女の子みたいな名前だ、と遙は思わず笑みを漏らした。自分との意外な共通点を見付けてしまった気分だったのだ。彼は一緒に泳ぎたいと言ってくれた。自分の泳ぎをもっと近くで見たいと。冷たく撥ね付けながらも、自分を気にかけてくれることが嬉しくて、くすぐったいような、面映ゆいような、不思議な気分だった。二度と正体を見られることがあってはならないと思いながら、凛の前だと思えばこそ気が緩んだのも事実だった。なぜこんなにも、彼を特別に感じてしまうのか、遙にはわからなかった。かつて心を許したたった一人の幼馴染みにも抱いたことのない感情を、自分が凛に向け始めていることにも。
ガタン、と入り口から音がした。凛が来たのだと思って向けた視線は、すぐに咎めるような強い眼差しに変わった。
「コンバンワ、七瀬」
その顔には見覚えがあった。凛が来る前から頻繁に――凛が初めて自分のクラスにやって来た時も、その隣に居た男だった。
「びっくりしてさ~今日。七瀬がウチのクラスに来るなんて、初めてだろ?しかも松岡を呼び出しとかさ。もー、やられた!って感じよ」
軽薄そうな笑みを浮かべて近付いてくる男を警戒して、遙はプールから上がった。水の滴るなまめかしい肌を見て、男は厭らしく舌舐めずりをした。
「水着、似合うじゃん。あの馬鹿みてーな噂じゃねーけど、マーメイドだって言われてもこれなら信じるわな。なあ、あんたほんとに男か?どうやったらそんな全身から色気がダダ漏れになるんだよ?」
遙は男を睨み付けた。馬鹿にしたような物言いが神経を刺激して癇に障る。昔からこういう輩は一定数いたが、いつだって気分の悪いことに変わりはなかった。
「誰にもなびかないってのが良かったのに、好みの男が居たらホイホイ寄ってくのかよ。がっかりだわ。なあ、もうヤッちゃった?松岡って相当オンナ慣れしてるっぽいからな。あの体つきからして、さぞかしいいテク持ってんだろうよ」
男はプールサイドの遙の傍まで来ると、その顔を上から覗き込んだ。
「尻軽人魚の遙チャン。遊びでいーから、俺にもヤらせてよ」
ドン!と強く肩を押されて、遙はその場に横向きに尻餅をついた。起き上がろうとするより早く、男が背後から覆い被ってきた。マウントを取られて身動きできない体勢で遙が叫んだ。
「ッやめろ!」
「なーに初心なふりしてんだよ。慣れてんだろ?どうせ中古なら一人くらい相手が増えてもどってことねーだろーが。おら、勿体ぶってねーでとっととケツ出せよ」
そう言うと男は遙の水着に指を掛けて、一気に引き摺り下ろした。咄嗟に蹴り上げようとした足を後ろで掴まれて、遙は唇を噛んだ。
「、うわ、真っ白!しかも何だこれ、ちっせー穴!カワイーじゃん」
男の武骨な指が後ろに押し当てられた。そのまま力任せに捩じ込まれて、遙は悲鳴を上げた。
「痛ッ……!」
「……ちょっと待てよ、七瀬お前、もしかしてまだ処女か?」
マジで?と上擦った男の下衆な言動に、遙は羞恥と怒りで震えさえ起こした。それをどう取ったのか、男はますます調子に乗って中を弄り回した。不快感で吐き気を覚え、遙は必死に抵抗しながら後ろを振り向き、男に向かって掠れる声を上げた。
「さ、わるな、血が、穢れる……!」
指の動きがぴたりと止まった。男は自分を睨み付ける遙を見て、口角だけを吊り上げた。
「ハッ。何様だよ」
バシン!鈍い音がして、遙は床に顔を埋めた。唇が切れて血が出ていた。男がもう一度、遙の上に乗り上げようとした。
その瞬間、バッと一斉に照明が点いた。
「何……、やってんだてめえぇ!!!」
よく知る声が聞こえて、遙は視線だけをそちらへ向けた。凄まじい怒りを眉に這わせた凛が、駆け付けた勢いのままに男を殴り飛ばした。遙の上から転がり落ちた男の顔面目がけて、間髪入れずに凛が拳を振り上げた。
「やめろ松岡!!」
叫んだのは遙だった。凛は振り上げた拳はそのままで遙を見た。何故、と言いたげな表情だった。
「暴力沙汰は駄目だ。部に迷惑がかかる。お前も、処分を受けることになる」
構わず振り下ろされた腕を、遙は文字通り体を張って止めた。その隙に床を這いずるように、男が鼻から血を流しながらその場を逃げ出した。
「てめぇ!ぶっ殺してやる!!」
必死で腕に抱き付く遙を引き剥がそうとして、怒りで瞳を赤く燃やした凛が吐き捨てた。
「離せ!お前にこんな真似しやがって、あのクソ野郎!!」
「もういい、もういいんだ松岡。おれは、大丈夫だから」
未だ腹の底をぐらぐら煮え立たせるような怒りの波が引かず、その持って行き場を失くして、凛はふぅふぅと荒い息を吐きながら遙を見た。そこでようやく、彼は遙の唇から流れる血に気が付いた。
「、大丈夫か!?」
遙の口元を親指の腹で拭いながら、凛はかくりと頭を垂れた。
「ごめんな……」
きょとんと目を瞬かせて、遙が首を傾げた。
「なんでおまえが謝るんだ」
遙の頬に添わせた手はそのままに、凛は顔を上げて遙を見た。真正面から見つめるその顔は常のように美しく、口元の赤い傷だけが痛々しかった。ほとんど無意識に、凛は目の前の体を抱き寄せた。
「――……」
遙は抵抗しなかった。濡れた黒髪に鼻を埋めると、塩素と混じって微かに遙の匂いがした。
***
ルームメイトが居ないという遙の部屋は、にも関わらず二段ベッドと机が二脚置いてあった。
「んだこれ。七瀬お前、一人部屋じゃねーのかよ」
空っぽの机に目線をやりながら凛が尋ねると、遙は「ああ、」と肩をすくめた。
「もともとは二人だったんだけど、夜中にルームメイトに襲われかけたことがあって。一度ならまだしも、相手を変えても続いたもんで、寮長がとりあえず特例措置を取ってくれて」
「ア”ァ!?」
そこで凛が呻り声を上げた。
「ッ襲われたってお前、今日が初めてじゃなかったってことか!?今までにもこんなことがあったってのかよ!?」
両肩を掴んで揺さぶりながら動揺のままに問い詰めると、上下にがくがく揺れながら遙が「大丈夫だ」と答えた。
「ぜんぶ未遂だ。おれはこれでも腕っぷしには自信があるんだ」
「ケツ剥かれて犯される寸前だったじゃねーか!!」
ふざけんな!と本気で怒鳴られて、遙はムッとしたように眉をひそめた。
「……今日のはちょっと油断しただけだ。水場だとどうしても気が緩むんだ」
凛は「ア~~~!!」と苛々したようにガシガシ頭を掻き毟った。
「お前、頼むからもうちょっと危機感持てよ!今まで無事でいられたのが不思議なくらいじゃねーか!」
勢いのまま遙の体を押してベッドに仰向けに倒すと、凛はそのまるい頭といささか薄い気がする背中を抱き締めた。されるがままの遙を可愛くも憎らしくも思いながら、その耳元に唇を押し付けて吹き込むように言った。
「お前が、もしあのクソ野郎にどうにかされちまってたら、俺はあいつを百回ブッ殺しても足りねぇ。……今も、誰かがお前の体に触ったと思うだけで反吐が出そうだ。だから頼む、もう誰にも触らせねえって今、ここで約束してくれ、七瀬」
必死に訴えるような凛の言葉に、その全体重を受け止めたままで遙がつぶやいた。
「……おまえにも?」
ガバッ!と体を引き離して、勢い余って凛はベッドの天井にしたたかに頭をぶつけた。
「いッてぇ!」
頭頂部を手で庇うと、上体を起こした遙が「だいじょうぶか」と心配そうに見上げてきた。
「、だからお前は!今もなんで押し倒されてんのに大人しくしてんだよ!俺お前に惚れてんだぞ、完全に送り狼じゃねーか!そもそも部屋に入れてんなよ!馬鹿か!!」
もはや自分が何に対して腹を立てているのかもわからず、凛はまくし立てた。理不尽な怒りだとわかっていて、言ってやらずにはいられなかった。七瀬を誰にも渡したくない。でも七瀬は決して自分のものでもないのだ。そんなことはわかってる。けど。それでも。
「松岡」
遙の腕が伸びてきて、凛の頬をそっと撫でた。視線を向けるとまともに目が合った。遙の瞳は凛を映してわずかに潤んでいた。
「おれは、この部屋にルームメイト以外で誰かを入れたことはない。クラスの奴らも、先輩も、後輩も、誰ひとりだ」
そのまま引き寄せられるように、ほとんど重なる直前まで顔が近付いた。遙の赤く色づいた唇が、吐息と共に問いかけた。
「……おまえ、おれを愛しているか?」
果たしてイエスと言葉で伝えたのかどうか、もはや凛にはよくわからなかった。
ただ無我夢中で目の前の唇に齧り付いた。遙はやっぱりちっとも抵抗なんかしないで、あろうことか後頭部に腕を回して縋り付いてきた。それでもう、凛はすべてを放棄した。もういい、わかった。これは俺が喰らい尽くすためにここにあるのだ。そういうことだ。
***
唾液まで塩素の匂いがした。
興奮して指で舌を引き摺り出すと、遙は酸欠の魚のようにはくはくと唇を動かした。小さな口を限界まで開けさせて、噛み付くように歯を立てると、ヒュッと喉が鳴った。舌を噛まれると思ったらしい。
「噛まねーよ」
代わりにたっぷり舐めてから、にゅるにゅる絡めるキスをした。気持ちいいのか、ふんふんと鼻を鳴らして縋り付いてきた。
「ぁふ、」
左手で口の中を弄りながら、右手をシャツの下に潜り込ませて手のひら全体で肌を愛撫する。ツンと尖ったものを探り当てて、指先で捏ね繰り回してやると背中がびくびく震えるのがわかった。
「こっちも舐めていいか?」
「、んぁん、ぅん……」
聞き取りにくかったがうんと言ったような気がしたので、凛は絡み付く甘い舌を惜しみながら解放した。体を下にずらして胸元に移動すると、淡い紅茶色の小さな乳首が健気に尖りきって、愛撫されるのを待っていた。
「……赤ん坊みてー」
いささか感動的につぶやいて、そのままパクリと口に咥えた。前歯が掠めて、遙が高い声を上げた。
「あぁん!」
舌と歯で挟み込むように、片方は指で押し潰すようにして可愛がってやると、遙は背中をシーツに擦り付け、もぞもぞとしきりに足を擦り合わせていた。ああ感じやすい体なんだな、と思った。思いながらも別に冷静な訳ではなかったので、凛は指も舌も止めることはなく、終いにはそれこそ自分が赤ん坊のようにちゅうちゅう乳首にむしゃぶりつきながら、片手を下ろして遙のジャージのズボンを引き抜いた。
「っあ」
それで思い出したようだった。
「……」
遙は下着を着けていなかった。ズボンの裏地とゆるく勃ち上がった性器の間に粘着質ないやらしい糸が引いたのを、凛は見た。
「……、どんだけ感じてんだよ、もうこんなぐっしょぐしょじゃねーか」
「ぁ~、あ……」
遙の性器は綺麗なピンク色をしていた。全然使っていないような無垢な色だった。なのにその先端からは快楽を覚えた証拠のように大量に蜜が溢れて、それは今や性器の下で密かに息づくその場所までしとどに濡らしていた。
「お前こんなんでよく今まで無事で……、いや無事じゃねーわ、全然」
濡れたそこに中指を這わせて、凛が苛立たしげに大きく舌打ちした。
「あ、!」
そのままヌッ、と押し込むと、押し返すような抵抗こそあったものの、遙のそこは比較的楽に凛の指を飲み込んだ。
「あっぁ……」
「てめぇ七瀬!あのクソ野郎にどこまで何された!?んでこんな、簡単に入っちまってんだよふざけんな!」
言いながら二本目を差し込むと、途端に中がきゅうっと閉まってそれ以上の侵入を阻んだ。
「痛ぁ、い、あ、あっ」
狭い中をぐりぐりと掻き混ぜる。締め付けるような動きをする内部のどうしようもない熱さに、凛はギリギリ奥歯を噛んだ。
「言えよ、どこまでされた?ケツひん剥かれて上に乗っかられて、そんで?」
「あっぁっ、ゆ、び、一本、だけ、それだけ」
荒い息を吐きながら、切れ切れに遙が答えた。
「くそっ!」
「うぁ!」
間髪入れずに三本目が入ってきた。ほとんど無理矢理に圧迫されて遙は悲鳴を上げたが、しかし指はどれもたっぷりと淫液を纏わせていた。決して中を傷付けないように、内壁をゆっくり擦ってほぐすような動きはどこまでも優しく、凛が衝動的に行動を起こしたのではないことがちゃんとわかった。仰け反っていた顎を引いて、遙は目の前の男と向き合った。
「、痛いか」
「ううん」
首を横に振ると、凛がほっとしたように息を吐いた。つい今見せた激情がまるで嘘のようだった。その代わり中を探る指の動きは次第に大胆になり、やがて内部からぐっちょぐっちょと耳を塞ぎたくなるような卑猥な音が聞こえてきた。さっきから自分の中がまるで急かすように、求めるように、貪欲に凛の指に絡み付いている。はしたない。恥ずかしい。――でも。
遙はひとつ大きく息を吸った。
「松岡、」
ぎらぎらした欲望むき出しの目で、凛がこちらを見た。ハッハッと短く吐かれた息が荒い。
遙は凛の腕に両手を添えて、ゆっくり自分の中から引き抜いた。
「っぅん、」
ぬちゃ、と音を立てて引き抜かれた指が、粘ついた糸を引いているのを横目に見ながら、遙は中途半端に閉じていた足を自らそっと開いた。
凛の血走った目がそこを凝視しているのがわかる。居たたまれなくて耳まで赤くなるほどの羞恥に耐えながら、遙はもういちど「松岡」と呼んだ。
「来て」
***
「あぁ……ッ」
侵入を果たした遙の中は狭く、あたたかくて、ぬるついていた。凛はきつく歯を喰い縛って、気を抜けばすぐに持って行かれそうになる快楽を必死でやり過ごした。
「あ、あッ、痛……」
「っ、痛ぇか?」
暴走しそうな腰を耐えて、動きを止めて顔を覗き込むと、遙は首を横に振って「大丈夫」と答えた。
「初めては、痛いものだろ」
「……!」
凛はこの上ない喜びと優越感を覚えた。この美しくも艶めかしい体を、初めて暴いたのは自分なのだ。七瀬が体を許した初めての男であるという事実は、凛の雄としての矜持を満たした。
「アッ」
浅い場所をゆるく突くと、遙が少し高い声を上げた。困惑と享楽が混ざったような声音だった。意識して同じ場所を掻き混ぜるように腰を動かすと、断続的な悲鳴が上がった。
「あっぁっアッ、いやだ、いや、そこ」
「嫌?痛いのか?よくねえ?」
さっき良さそうに聞こえたのは勘違いだったのか、と凛が腰を引こうとすると、咄嗟に遙が腕を伸ばして首に抱き付いてきた。
「ッいやだ、やめないで」
「!」
――「イヤ」が「イイ」の同義語になるのは、快楽を深めた気持ちのいいセックスをしている時だけだと知っている。
「……気持ちい?七瀬」
「んん、痛い、」
眉をしかめて目元を紅潮させた遙を見て、凛は思わずほくそ笑んだ。
「嘘つけ」
ぎりぎりまで引き抜いてから、ゆっくり奥まで突くと、遙は悲鳴のような嬌声を上げた。
「ぁ~~~!!」
うねうねと収縮しながら絡み付いてくる内部の動きに、凛はハッハッと短く荒い獣のような息を吐いた。こめかみを汗が流れ落ちる。
――生まれて初めてセックスした時だって、ここまでの快楽はなかった。好きな子とのセックスに変わりはないのに、こんなにも違うものなのか。相手が七瀬だという、ただそれだけで。
「七瀬、中、ぬるぬる、滑る」
「あ、あ、恥ずかしい、やだ」
言いながら七瀬が手で顔を覆った。そんな姿にどうしようもなく興奮して、凛は大きく腰をグラインドさせると、遙の前を輪っかにした指で強く擦りながら同時に中を抉るように突き上げた。遙は左右に頭を振りながら、大きく喉を仰け反らせた。
「あっあっイく、もッ、でる、でる」
「ッ俺も、いったん抜く、」
フーッ、フーッと息を荒げながら、迫りくる射精感に耐えて凛が腰を引こうとすると、遙の中が逃がすまいというようにきゅうっと締め付けてきた。
「!馬鹿、そんな締めたら中で出ちま」
「出して……」
言うなり、遙はそれまで大きく開いていた両脚を、凛の腰に交差させるように絡めてホールドした。
「バッ……!俺、ゴムしてねーんだぞ、そんなんしたらお前」
いきなりの遙の行動に慌てふためきながらも腹筋に力を入れて、なんとか暴発を堪えた凛の耳元に、遙が濡れた声で囁いた。
「おまえの、種が、ほしい、……凛」
そうして後頭部と、背中と、腰を、しなやかな手足でぎゅうっと抱き締められガッチリ拘束されて、ひときわ妖しくうごめいた内部に搾り取るような動きをされればもう、ひとたまりもなかった。
「――!は、ぁ”っ、ハル、遙……!!」
背中を折れるほどきつく抱き締めると、遙がいっそう悩ましげな声を上げた。びくびく痙攣するその腹の中に、凛は叩き付けるように勢いよく吐精した。
***
二段ベッドの天井を、仰向けに横になってぼうっと眺めたまま、凛はしばし放心していた。
――凄かった。何せ、すごかった。なんだあれは。あれがセックスか。じゃあ俺が今まで経験してきたのは一体何だったんだ。あんなもん経験しちまったら、もう戻れる訳がない。いや戻るってどこにだ。どこに戻る必要があるというんだ。
「凛」
さっきから凛の肩に頭を乗せて、すりすりと胸に頬を寄せていた遙が、ふいに顔を上げて少し掠れた声で尋ねた。
「気持ちよかったか?」
「……オゥ……」
腹の底から出た声に、そうか、と遙はいかにも嬉しそうにほほ笑んだ。
「おれも、気持ちよかった……」
如何ともしがたくなって、凛は遙を腕の中に抱き込んで奪うようにキスをした。積極的に舌を絡めてくる遙が可愛くて堪らなかった。しつこいくらいに濃ゆい口づけの後、粘こい糸を引いた唇が離れても、遙は凛の胸の中から一向に抜け出そうとはせず、代わりに甘えるように剥き出しの白い額を擦り付けてきた。
「ハル……、どしたよ。なんつーか、人が変わったみてえ」
嬉しくもどこか動揺を隠せないまま、遙の髪を指で梳きながら凛が尋ねると、気持ち良さそうに閉じられていた遙の目がぱちりと音をたてて開かれた。
「マーキングしておこうと思って」
へ、と間抜けな声が漏れた。
「おまえはもう、おれの夫だから」
***
「凛」
声に振り向くと、教室後方の扉から遙が手招きしていた。
「ハル」
悪ィちょっと行くわ、と言い置いて席を立つと、談笑していた数名のクラスメイトが途端に驚愕の表情を浮かべた。
「えっ何、どういうこと!?」
「名前呼び!?」
「あいつらマジで付き合ってんの!?」
ざわめく背景を放置して教室を出ると、廊下で待っていた遙が手にした大きめの包みを目線の高さまで持ち上げて見せた。
「弁当作ってきたから、一緒に食べよう」
「おー、サンキュ」
包みを受け取って並んで歩きだすと、すぐに空いていた片手をきゅっと握られた。
「どこで食う?天気いいし屋上行くか?」
「外はまだ寒いだろ。東棟に空き教室があるから、そこにしよう」
絡めた指は廊下に居たせいか少しばかり冷たかった。あたためてやりたくて力を込めて握り返すと、顔を上げた遙が嬉しそうにほほ笑んだ。よく笑うようになったな、と凛は思った。
遙に案内されて入った二階北隅の空き教室は、なるほど随分と長いこと使われていないようでかなり荒れていたが、床はきれいに磨かれていたし、机も椅子も比較的まともなものが一揃い、きちんと中央に置かれていた。
「たまに来るんだ。まめに掃除もしてる」
促されて座ったソファには、背もたれと肘に三か所ほど継ぎはぎで繕った形跡があった。
「これもお前が縫ったのか」
「ぼろ切れだけど、穴が空いてるよりマシだろ」
器用なんだな、と感心したように呟くと、遙は別に、とちょっと照れくさそうにそっぽを向いて、自分も隣に座るとそそくさと弁当箱を開け始めた。褒められることがあまり得意ではないのだとわかった。そういうところも愛しかった。
「新鮮な鯖を買ったから、塩焼きにした」
言いながら箸で身をほぐすと、遙はなんでもないように「ほら」と凛の口もとに運んできた。
「……、ぁ~……」
内心ものすごく動揺しながらもなんとか口を開くと、運ばれてきた身は奥までしっかり火が通っていて柔らかく、ぱりっとした皮の香ばしさが舌の上に広がった。
「、うまい」
「そうか」
よかった、と笑って遙は同じ箸で自分も鯖を口にした。そのまま弁当箱と二人の口もとを行き来しながらの食事は続き、結局最後まで凛が自分で箸を使うことはなかった。
「ご馳走さん」
空になった弁当箱を丁寧に包み直していた遙が、凛の言葉に「うん」と頷いた。
「きれいに食べてくれてうれしい」
そう言ってほほ笑むと、遙は凛の頬にひとつ軽くキスを落とした。
「ッ、ハル」
そのまま肩を掴んでソファの上に押し倒すと、遙の手から落ちた弁当箱が床に転がった。それを拾い上げることはせず、遙は空いた両手で凛の背中を抱き締めてきた。
「凛……」
***
「お、オッ、夫、オットって、なんだ?」
単語としての意味すらあやうくなって、凛は目をぱちぱち瞬かせながらどうにかそう尋ねた。問われた遙はといえば、なぜそんなことを聞かれるのかわからないとでも言いたげなキョトンとした顔で「そのままの意味だ」と答えた。
「そのままって、」
「言い方を変えた方がいいか?亭主だ」
「テイシュ!?」
耳まで真っ赤になって、裏返った声で片言のようにくり返すと、遙がことんと首を傾げた。
「横文字ならハズバンドとか、昔ふうに言えば宿六とか?」
「そうじゃなくて!」
がばっと上体を起こすと、凛はベッドの上で正座して遙に向き直った。
「じょ、冗談で言ってるわけじゃねえよな……?」
訝しげに眉をひそめると、遙の顔色がサッと変わった。
「凛、おまえ、おれを愛してると言ったのは嘘だったのか」
言うが早いか遙の目尻からは大粒の涙が溢れ出した。唇をぶるぶる震わせ頬を紅潮させたその表情に、凛は目に見えて激しく狼狽して「違げーよ!!」とぶんぶん首を横に振った。
「嘘じゃねーよ!お前を愛してる、ハル!だから、あ~、なんだ、こういう関係になったんなら、そこはとりあえず恋人とか、すっステディとか、そういう名称になるんじゃねえの?実際のところ、俺もお前も男なわけだし」
いや将来的に一緒になる方法がない訳じゃねえけど、と凛がまたしても赤くなった顔でぶつぶつ呟いていると、ああ、と遙はなんでもないことのように肩をすくめた。見れば涙はきれいに引っ込んでいた。――お前の体の水分調節はどうなってんだ。
「凛おまえ、おれの正体は知ってるだろ」
「……人魚だろ」
それがどうかしたか、と尋ねると、遙は自分も起き上がり、佇まいを直した。乱れた髪の毛がセクシーだと、こんな時でも思わずにはいられなかった。
「ばあちゃんが言ってたんだ。人魚に変化した時点で、おれの性別は男でも、女でもなくなったって。もちろん形としては雄型だけど、それは普通の人間としての性別とは違う。だから、いつかおれの正体を知った上でおれを心から愛してくれる人と出会えたなら、それが男でも女でも、その人を伴侶に選べって。……凛は、男だ。だからおまえは、おれの夫だ」
***
ソファの上でぐったりとした遙を胸に抱き寄せて、汗の浮いた額にキスしてやると、ろくに力の入っていない腕が伸びてきて首に回された。制服の上着は床に落とされ、ズボンはずり下げた状態で夢中で行為に浸っていたため、いまだ剥き出しの足が絡み付いたままだ。腕の中の遙のあたたかさと、昼食後の眠さも手伝って、凛はちいさく欠伸をした。
「……眠いか?」
「ん~……、でも、もう時間ねーしな」
壁掛けの時計を見ると、あと五分で予鈴が鳴るところだった。昼休みの逢瀬もこれでお終いだ。遙の頭頂部に鼻を埋めてスンスン匂いを嗅ぐと、得も言われぬ甘い香りがした。遙の汗には何か特別な成分が含まれているに違いない。凛は半ば本気でそんなことを思った。
「今日も部活終わったら、晩飯は一緒に食おうぜ」
唇を滑らせてこめかみにキスすると、うん、と遙が頷いた。
「そのあとはまた一緒に泳いで」
それから、と遙が続けた。
「おれの部屋で、いっしょに寝ような」
あの日、夜のプールで泳ぐのをやめようとしていた遙に、凛は言った。
「お前はこれまで通り、自由に泳げばいい」
「でもまたあんなことがあったらおまえにも、水泳部にも迷惑が掛かる」
俯いた遙の頬を両手で包んで顔を上げさせると、凛はその目を見つめて言い聞かせるように、自分への戒めのように、ゆっくり言葉を口にした。
「もう絶対に、お前をあんな目には合わせねえ」
遙を襲った男は、遙の「大事にしたくない」という希望もあり、それ以上の追及を受けることなく翌日も普通に登校してきた。ただ、青く腫れ上がった頬と、凛との間に走るピリピリした空気から、クラスメイトらも何かを察したようだった。以前のように絡んでくることは一切なくなり、一定以上の距離を置くようになった。遙に対しても既に興味を失ったのか、それとも凛との関係を知ったからか、あれだけ見せていた執着をすっかり失ったように、七組はおろか東棟へ近寄ることすらしなくなった。凛は許されるなら奴の顔の原形を留めなくなるくらいには殴ってやりたいと思っていたし、実際そうするつもりでいたのだが、そのことを察した遙の必死の懇願によって、不承不承の体で諦めたのだった。
「ハルお前、やっぱり水泳部に来いよ」
「だから、それは」
出来ないんだ、と困った顔で遙が言い終える前に、凛がゆるく首を横に振った。
「選手としてじゃなくても、居場所はあるだろ」
そう言うと、凛は歯を見せてニッと笑った。
***
「タオルどうぞ」
「あっあっありッ、アリガトゴザイマッス!!」
差し出されたタオルを受け取った一年生は、可哀想なほど動揺しながら遙に向かってビシィッ!ときれいな45度の角度で上半身を曲げた。
「ドリンクここに置いておきます」
「「キョッ、恐縮です!!」」
上擦った声を上げたのは三年のレギュラー陣だった。見れば頬と言わず耳と言わず首筋まで真っ赤になって、カタカタ震える手で受け取ったドリンクを盛大に零していた。
「いやあ、やっぱりマネージャーが居るというのはこう、場が華やぐな!」
かっかっか!と高らかに笑う御子柴を横目に、凛は「どう見ても集中力を欠いてますが」と溜め息を吐いた。
翌日の部活前に遙を伴って御子柴の部屋に赴くと、凛は深ぶかと頭を下げた。
「こいつは事情があって選手としては所属できませんが、部のサポート役に回ることで充分に貢献してくれると思います。部長がこいつに期待してた分まで、俺が必ず成果を出します。ですから、どうか今後も練習後のプールの使用を認めてやって下さい」
お願いします、と更に限界まで頭を下げる凛の隣で、遙は自分も静かに頭を垂れた。
「……選手としては、どうしても無理か?」
御子柴の問いかけに、遙は俯いたままで「はい」と返事をした。
「そうか」
「部長、ハル……七瀬は、」
ガバッと顔を上げて、凛は尚も食い下がろうと口を開いた。
「じゃあ今後は、マネージャーとして我が水泳部の発展に協力してくれたまえ。言っておくがウチは大所帯でめちゃくちゃ忙しいぞ!大変だとは思うが、一つよろしく頼むよ」
そう言ってニッカと笑った御子柴に、凛は口を開けたまま暫くぽかんとしていたが、ハッと気付いて勢いよく遙を見た。
「ハル!」
「……ありがとうございます」
もういちど深く頭を下げてから、遙も凛を見た。
「凛……」
――うれしい。これで、部活中も凛と一緒に居られる。プールで泳ぐ凛の姿を見ていられる。一緒に泳げる。
見つめ合う二人を前に、御子柴は所在なさげにぽりぽりと頭を掻いた。
「あ~、なんて言うかお前ら、部活中はあんまり見せ付けないようにな!」
「ラスト一本!」
掛け声と共に水飛沫が上がる。中央のコースから、凛が勢いよく飛び込んだ。
水面に上がってくると同時に力強く左右の腕を回し、水と一体になって流れるように進んでいく。呼吸のタイミングもぴったりだ。深いローリング、手の平の入水角度、指先の開き方、すべてが完璧で、言いようもなく美しかった。
「いい泳ぎだろう」
いつの間にか隣に立っていた御子柴が、視線はプールに置いたままでそう話しかけてきた。
「あいつは近いうちに必ず世界を狙える選手になる」
「……そう思います」
綺麗なターンを決めて戻って来る凛から視線を外さないままで、遙が答えた。
「共に競い合うことが出来ないなら、せめてずっと傍で支えてやってくれ」
壁に手を付き、凛が水から上がる。「自己ベスト更新です!」後輩が興奮気味に叫ぶのを、遙は少し離れた位置から聞いていた。
「マネージャー、タオル」
声を掛けられて、ハッと気付いて慌ててタオルとドリンクを持って駆け寄ると、濡れた髪を掻き上げながら「遅せーよ」と凛が笑った。
その笑顔が好きだった。
全力で泳ぎ切った後の、幸せそうなおまえの顔。初めて見たあの時からずっと変わらない。
渡されたドリンクに口を付けながら、からかうように凛が言った。
「なに見とれてんだよ」
照れも、恥ずかしがることもなく、遙はただ心の中で思った本音を口にした。
「大好きだ、凛」
ぶふぉっと思い切りスポドリを噴き出した凛に、近くに居たチームメイトらから「ゴラァ見せ付けてんじゃねーぞ!」と盛大なブーイングが上がった。
***
明かりを点けない夜のプールが、ただそれだけで昼間とは全く別の場所のように感じられるのだということを、遙と共に泳ぐようになって初めて知った。
「意外と見えるもんなんだな」
水の中に手を潜らせて、波間でゆらゆら動かしながら凛が言った。
「月明かりがあるから」
既に50メートルを泳いで戻って来た遙が、水面に浮かんだままで天井を見上げながらそう答えた。
ガラス張りの天井からは、雲も出ていない今夜は星も月もよく見えた。なかなか贅沢だろ、と笑う遙にまあな、と頷いて、凛はスゥッと息を吸い込むと頭まで水の中に潜った。月の光が水面に反射して、きらきら輝いていた。この景色を、遙はずっと一人で見ていたのだと思うと、ひどく切ないような、どこか羨ましいような、複雑な感情が胸に押し寄せてきた。
「競争しようか、凛」
突然、遙がそんなことを言い出した。
「なんだよ急に」
訝しがる間もなく背中を押されてプールから上がると、遙は中央のコースの飛び込み台まで凛の腕を引っ張って行った。
「一度、おまえと一緒に泳いでみたかったんだ」
「お前な……あんだけ嫌だって言ってたくせに」
呆れたように言うと、凛は「いいぜ」とおもむろにキャップを被り直した。
「ただし、真剣勝負な。手ェ抜いたら絶対に許さねぇ」
「……」
自分から言い出しておきながら、そこで遙は口をつぐんだ。本気の勝負がしたかったわけではなかった。ただ、同じプールで、隣のコースで、凛と一緒に泳ぎたいと思っただけだった。
「んな顔すんなって。わかってるよ」
コツンと額を小突かれて、遙は困ったように眉を曲げたままで凛を見た。
「……おれに負けても、泣いたりしないか?」
「ッこのやろ!」
スタートの合図は正面の壁に掛かった時計の秒針が12を指した時と決めて、二人は飛び込み台の先端を指先で軽く握り、グラブスタートのポージングを取った。
秒針が10を過ぎた時、遙は目線だけで隣のコースの凛を見た。示し合わせた訳でもないのに、凛もこちらを見ていた。目が合ったと同時に、凛の声が聞こえた気がした。
(行くぜ)
飛び込む瞬間、どうしようもなく気分が高揚するのを感じた。ほとばしり、逸る感情、血がたぎるとでもいうべきか、言い知れぬ興奮が遙を襲った。それは二人まったく同時に水に落ち、一度目のストロークからクイックターンに至るまで、ほんの少しも冷めることはなかった。コースを挟んですぐ隣に凛が居ること、今この瞬間に凛と同じ水の中に居るのだという事実に、遙のテンションは異常なほどに高まり、ぞくぞくと奮い立った。
――血沸き肉踊る
そんな言葉が瞬時に脳裏を掠めた。遙は今、自分が初めての闘争心を燃やしていることに気が付いた。そんな感情が自分にあったのだと、いっそ感動すら覚えた。
(あの時おまえと一緒に泳いでいたら、今と同じ気分になれただろうか)
リカバリーの完了と同時に、壁面に指先でタッチするその瞬間まで、激情は遙の胸の内で、あるいはその瞳の奥で、燃えさかる炎のように熱を帯び、いつまでも消えることはなかった。
***
プールサイドに腰掛けて、泳ぐ彼の人の姿をただじっと眺めていた。
つい今し方、血が沸騰するほど白熱した勝負を繰り広げたのが嘘のように、遙はまるで凪いだ波のような静かさで、ひとり一心に泳いでいるのだった。
凛は目を閉じて、反芻する。――あの、公式試合の時だけに感じる、自らを奮い立たせるような激情。ひたすらに胸が熱く、荒ぶる心がヒートアップして、更に燃え上がるような。
(負けたけど)
タッチの差で敗北した。水から上がる前、凛は壁を叩き付けて「ちくしょう!」と叫んだ。僅差で敗れた悔しさ、惚れた相手に敗北したことの情けなさ、そして、何よりここまで自分を本気にさせる相手に出会えたことの喜びに、天にも昇るような心地がした。全く相反する感情が同時に湧き起こるのが、いっそ可笑しくもあった。
「凛……」
先に水から上がった遙が、戸惑いながら手を伸ばしてきた。その手を取って、しかしその場に留まったまま、真っ直ぐに瞳を見据えて凛は言った。偽りなく、本心からの言葉だった。
「ハル、すげー、……楽しかった」
ぱしゃん、と音がして、次いで「凛」と呼ぶ声が聞こえた。
気が付けばすぐ目の前に遙が戻って来ていた。ああ、と視線を移した先に、まばゆいばかりの青い尾ひれがあった。
「、ハルお前」
「ああ……」
そこで遙は初めて気付いたようだった。月明かりに照らされた水の中で、青い鱗が宝石のようにきらきらと輝いていた。
「真剣勝負のあとだから、気が抜けたんだ」
ゆらりと尾ひれを波間に潜らせて、そうつぶやいた遙の姿に、凛はどこか違和感を覚えた。
――きれいだ。いや、水の中のハルはいつだって綺麗だけど、そうじゃなくてもっと根本的なものが違うような――――たとえばその腕に浮かんだ青い――――
「……!お前、腕、と顔」
驚愕に凛は目を見開いた。指差した遙の肩と腕、よくよく見ればその頬の一部にも、青く輝く鱗が薄っすら生えているのだった。
「見るのは、初めてじゃないだろ」
遙は首を傾げて、なんでもないことのように言った。確かに、人魚の姿の遙を見るのはこれが初めてではない。けれど、あの時は物陰に隠れて、尾ひれを揺らして泳ぐ遙を遠目に見つめていただけだったのだ。こんなにも間近でその姿を見るのは初めてで、凛はひどく面喰らった。
「全身に、生えてんのかそれ」
「ところどころだ。自分でもそんなに意識したことはないけど……」
言いながら首をひねって後ろを確認した遙の、陽に焼けていない白いうなじにも、ごくわずかな鱗が生えていた。凛は思わず手を伸ばすと、遙の首筋に指を這わせた。
「!びっくりする、」
「悪ィ……」
どこか上の空で謝りながら、凛は視線を下げた。水の中、波間に揺らめく青い尾ひれ、その始まる場所。へそのすぐ下、柔らかなラインを描く腰骨の辺りからまるで貝殻のように、数枚の鱗が点在している。形もまばらで小さく、それは小粒の貝のようにも、花びらのようにも見えた。指先でツッと撫でると、びくんと遙の肩が揺れた。
「くすぐったい」
「、爪も」
腕を取り指先をぐいと顔の傍へ寄せると、いつもはほんのりと桃色をした遙の短い爪は、常よりわずかに長く、すべて薄いブルーに染まっていた。
「すげぇな。こんなとこまで変わるのか」
「凛……、あんまりまじまじ見られると、恥ずかしい……」
戸惑ったような声に、凛は目線を上げて遙を見た。そして気が付いた。
――ああ、その潤んだ瞳の形まで違う。いつもの澄んだ青の中に、研ぎ澄まされたような濃いブルーがある。ヒトでない者の瞳の色。ヒトを魅了し同時に恐れさせるその。
「……ハル」
自分の声が熱を持っているのがわかった。気付けば凛は目の前の美しい人魚に、吸い寄せられるように口付けしていた。
「ん……、」
プールサイドに仰向けに打ち上げられたように、遙は尾ひれをパタパタと左右に揺らしながら、覆い被さる凛の首筋と頭に腕を回してキスを受け入れた。今は足がない分、上半身だけ伸び上がるような姿勢は少し辛そうで、唇は執拗に捉えて離さないまま、凛はその体を圧迫しないように僅かに上体を横にずらした。
「……!」
聡い相手は、しかしすぐにそれに気が付いたようだった。纏わりつく薄いぴったりとした布地は、凛の下半身の状態をダイレクトに遙に伝えていた。
「ごめん、何にもしねーから」
はぁ、と籠もった熱い息を吐いて、凛は遙をきつく抱き締めた。極力下半身は密着させないように気を遣いながら、濡れた髪に鼻先を埋める。惚れた相手の匂いを間近で嗅げばむしろ逆効果だとわかっていて、そうせずにはいられなかった。
「お前があんまりキレーだから」
赤くなった耳たぶをゆるく食みながら囁くと、耳の後ろにもわずかに鱗が生えているのが見えた。肌と鱗の境目を舌でなぞると、遙は「んっ」と喉を詰まらせて、ぎゅうっと抱き締めていた後頭部から指をずらして頬を包み込むと、下から凛を覗き込んできた。
「この姿でも、欲情するのか」
凛は興奮して上がる獣のような息を押さえようとして、しかし先程からずっと失敗していた。はーっ、と一つ大きな息を吐いて、何もかも見透かしたような青い瞳を見つめながら、観念したようにその口を開いた。
「お前だったら、……どんな姿でも」
凛、と名前を呼ばれて、同時に遙の手のひらが胸を押し返した。これ以上は嫌だという意味だと理解して、凛は鉄の意志でもってその身をゆっくりと離した。一向に萎えることのない下半身が、きつい水着の抵抗を受けていよいよ痛みまで伴ってきた。遙には悪いが先に上がってとりあえずトイレに籠もろうか、といささか情けないことを考えていると、プールサイドにその身を伏したまま、腕の力で上体をわずかに起こした遙がもう一度「凛」と呼んだ。
「今のおれには無理だけど」
遙の目元が赤いのはなぜだろう、と凛はぼんやり思った。
「ばあちゃんのばあちゃん、そのばあちゃんまでは、人魚と人間のあいだにも、子どもが出来たらしいんだ。だからおれみたいな、半端に変化を遂げるものが生まれたんだけど。おれは雄型で、……だからこれは、ただの名残りだ。今となってはもう、ただここにあるだけの、意味を持たないものだ。でも」
遙の指が、へその下を辿って、腰骨のもう少し下、びっしりと鱗の生えたその場所まで下りて、ぴたりと止まった。そこは人間で言うならちょうど両脚の付け根の辺りだった。遙の指先が、殊更ゆっくりと焦らすようにその部分を掻き分けた。現れたそれを捉えた瞬間、凛の目はそこに釘付けになった。
下半身を覆う青い鱗の間に現れたもの。慎ましく閉じられたそれは、女性の型をとった生殖器だった。
「こんな器官があるからって、子どもが出来るわけじゃない。おれ自身、これがあることさえもうずっと忘れていた。意味のない、飾りのようなものだ。でも、……でも、おまえがおれに欲情してくれるなら。ここは、おまえに愛されるために、おまえを受け入れることはできる」
そこまで言うと、遙は羞恥で首筋まで真っ赤に染めて、俯いたまま震える指で閉じたそこを左右にぱくりと割り開いた。一瞬も目を逸らすことが出来なかった。赤く熟れた柘榴のようなその場所から、むせかえる甘い匂いが立ち籠めた。凛は口の中に大量に溢れてくる唾を、ごくりと大きな音をたてて飲み込んだ。顔を上げその青い瞳を潤ませて、消え入るような声で遙が言った。
「……ためしてみるか……?」
***
破瓜の流血はあった。痛みもあった。けれど、そこはまるで本来の役割をようやく全う出来るとばかりに、膜を突き破って侵入してきた凛を歓迎するように包み込んだ。
「あ”……ッ」
がくん、と仰け反り、遙は声にならない声を上げた。痛みより、辛さより、苦しみより、何にも勝る確かな充足と、言いようもない快感がそこにはあった。
「ハ、ル、……ッ!!」
上擦った声と共に、凛の腰が前後に動いた。遙が恥ずかしさで狼狽するほど大量の蜜で濡れたその場所からは、抜き差しするたびぬちゃぬちゃと酷い音がした。
「狭……、すべる、うぁ、ッやべ」
「あっ!あっぁっ、あ~~~」
床に頭を擦り付けて、遙は左右に何度も首を振った。痛い。気持ちいい。良すぎて辛い。凛の背中に腕を回して必死で抱き付いても、いつものように両脚を腰に回して全身で縋り付くことが出来ない。中で感じる快感があんまり強過ぎて、外に流すこともできなかった。堪らず、夢中で広い背中に爪を立てた。
「ハル、中すげぇうねって、ァ、」
無我夢中で腰を打ち付ける凛の脳裏にも、もはや少しの余裕もなかった。
――自分には、過去に女と寝た経験が少なからずあったはずではなかったか?思えば人間の姿の遙と初めてセックスした時も、童貞を捨てたばかりのガキに戻ったような気がしていた。だが今のこれはどうだ。これはもうただのサルだ。覚えたての交尾に夢中で腰を振るだけ、技巧も何もあったもんじゃない。ただただ気持ちいい。死ぬほど気持ちがいい。中が濡れまくってて、最高にヌルヌルして、しゃぶり尽くすみたいに絡み付いてくる。間違いなく雄の精液を搾り取るための動き、そのために作られた器官だ。ハル、遙、お前はどんな姿でも、なんて――
「、凛ん……」
がくがく頭を揺らしながら、遙が息継ぎの合間のように声を漏らした。先ほどから遙の尾ひれがびたんびたんとしきりに床を叩いている。あれが足なら、今頃は自分の腰にいやと言うほど絡み付いてるだろうに、と凛はまともに働かない頭でそんなことを思った。遙、お前のしなやかな手足にぎゅうぎゅうに巻き付かれて、カラカラになるまで一滴も残さず搾り取られたい。
「どっちが、いい……?」
唐突な問いに、凛は一瞬「は?」と頭に疑問符を浮かべた。今ここで、このタイミングでいったい何を比べるってんだ。そんな場合か?気を持って行かれそうなセックスの途中に聞くようなことか?そこまで考えて、ハッと思い当たった。
いや、セックスの途中だからか。自分が間違いなく深い快楽を拾って、相手も確かにそれを感じていることがわかる今だからこそ。
――後ろを使うのと、本来の雌としての器官と、どっちが気持ちいい……?
「そ、んなもん」
相手がお前なら、どっちだって同じだ。心から惚れた相手だからこそ、ここまでセックスの快楽も深まるのだ。お前がいい。お前だから、どんなだって俺は、
「っれは、じめて、だ……らッ」
前後左右に揺れながら、遙が声を出した。勢いで舌を噛むんじゃないかと不安になった。ちっとも思い通りにならず、勝手に動いてしまう腰はそのままに、凛は遙の口元に耳を近付けた。
「、初めて、だから……ッ、こんなとこ、誰にも、見せたことない、あッけど……、凛が、好きだから。初めて、好きに、なった、ア、から、だから、凛なら。全部、ぜんぶ、凛になら……」
限界まで張り詰めていた中の質量が、ぐんと増したのがわかった。遙は目を見開いて、カハッと咳き込むように息を吐いた。
「くッそ……!!」
ガツン!ガツン!抉るような音をたてて、半ば乱暴ともとれる激しさで無茶苦茶に突いた。いちばん奥まで突き込んだ時、遙の中がひときわ激しく痙攣して、内部の壁がまるで吸い付くように凛の性器を四方八方からきゅうきゅう絞り上げた。
「あ~~~~!!イく、イく、」
びたん!ばたん!と遙の尾ひれがいっそう激しく床を叩いた。内部の締め付けは凄まじく、堪えようもなかった。凛はひゅっと一つ息を吸うと、下半身に力を入れていきんだ。汗だくで腰を掴んだ指に力を入れると、髪を振り乱して遙が叫んだ。
「あっ出して、だしてッ!リン出して、中にッだしてぇ――」
勢いのあまり鱗を引き千切ってしまわないことだけに神経を集中して、凛はなおも激しく収縮を繰り返すその中に思いきり、その激情のままに、大量の精液を吐き出した。
「っハルッ、あ、ハル……ッ!!」
びゅるびゅると勢いよく、長く長く射精は続いた。断続的に吐き出される濃いそれを、遙はうっとりと目を閉じて全身で味わうように受け止めた。腹の中が満たされて、あたたかい。恍惚とした表情で、遙は伸し掛かってきつく目を閉じ歯を食いしばって快感に耐える凛を見た。
――嬉しい。おれのこの体で、ちゃんと最後まで気持ちよくなってくれた。うれしい、凛の種をぜんぶ受け止めた。本当なら、おれが雌型だったなら、もしかしたら今ここでおまえの子を孕めたかもしれなかった。でも、そうはならなくても、そうはなれなくても、おれは――
そうして凛の背中を抱き締めたまま、ほほ笑みと共に掠れた声で遙がつぶやいた。
「凛に、ぜんぶ、捧げてしまった……」
***
三年に進級し、凛は新部長として、夏の大会で鮫柄水泳部を優勝に導いた。その傍らには常に七瀬遙の姿があった。部のために日々忙しく動き回り、部員のサポート役に勤め、そして何より凛のために、遙は健気なまでにその身を尽くした。
夏の終わりにオーストラリアから再留学の打診が届いた時、目の前にはっきりと開けた将来のビジョンに、凛は拳を握って「よし!!」と歓喜の声を上げた。彼は既に世界をその視野に入れていた。世界の舞台で戦うこと、いつかはその表彰台の中央に上ることを。
「俺は近い将来、必ず日本代表としてオリンピックに出る。そこで絶対に優勝して、お前に金メダルを持って帰る。世界一の証、名誉と誇りを、お前に捧げてみせる。だからハル、それまでここで、俺を待っててくれるか?」
深夜のプールで向かい合って遙の手を取り、その指先に想いを込めてキスしながら凛は言った。彼にとってこれはまごうことなきプロポーズであった。遙と共に生きていくと今ここで、遙自身の前で誓うつもりだった。
真っ直ぐに凛の目を見つめて、遙はその海を映した青い瞳を潤ませてほほ笑んだ。けれど、その口元がわずかに歪み、形のよい眉が困ったように下がるのを、凛は見逃さなかった。
「、駄目なのか……?」
遙はぶんぶんと首を横に振った。
「嬉しい、凛。ありがとう、本当に、うれしい……」
そう言いながら遙の目尻から、涙があふれてこぼれ落ちる。それが決して歓喜の涙ではないことが凛にはわかった。何故、と思わずにいられなかった。一生を共に生きて欲しいと心から願って、跪いて彼の許しを請おうというこの場面で、なぜまるで別れを切り出されたかのような顔をするのか、少しも理解できなかった。
「なんで、ハル、」
狼狽する凛のその手をぎゅうっと握り返して、遙は二度、三度、まばたきをした。長いまつ毛の間から涙が粒になってぽろぽろ頬に零れるのを、凛は視線で追った。遙の体にある水分は、体外に出ればあっという間に乾いてしまう。その涙の尊さを知っている。唇を寄せて、凛は遙の頬を伝う涙を舌で舐め取った。遙のものは何でも自分の中に取り込んでしまいたかった。
「ハル、お前が好きだ。世界でいちばんお前を愛してる」
遙は頬を擦り寄せてもう一度「うれしい、凛」とつぶやいた。そうして暫くのあいだ額同士を合わせて何かを噛み締めているようだった。しかしやがて消え入るような声が「でも」と小さく独りごちたのを、凛の耳が拾い上げた。
「おれは水を離れては生きていかれない」
――この学園を出たら、この町にもうおれの居場所はない。広いプールも、凛もいない。ふつうの人間としてここでお前を待つことが出来たらどんなにいいだろう。でもそれは無理だ。もともと海を長く離れて人魚は生きられない。この町に海はないから、おれはどこか別の、海のある町に移り住むことになるだろう。それがどこなのか、まだわからない。出来ることなら生まれ育った、大好きな幼馴染みの居る岩鳶の町に戻りたいけど、それもきっと難しいだろう。
凛、おまえはオーストラリアで、どうか夢を叶えてほしい。よそ見なんかしないで、まっすぐに生きてほしい。おれはいつだっておまえを想ってるし、ずっとおまえを愛してる。離れていても、おれの夫は世界でおまえだけだから。おれはおまえが、大好きな競泳の世界で、誰よりも速く泳いで、一番になって、表彰台の上で笑ってる姿が見たい。その時おまえが手にする金メダルを、おれはこの世界のどこかで必ず見てるから。
凛の腕がきつく遙を抱き締めた。何度もなんども背中を、髪を撫でるその指先が、小刻みに震えているのが遙にもわかった。彼が何を思い、何を言いたいのかもわかっていた。たとえ約束がなくても、もう会えなくなったとしても、それでも永遠に変わらないことがある。大切なことはたった一つだけで、それは既に遙の中にあるのだ。だから大丈夫だ。
「……俺が、ハル、お前を。世界でいちばん広い海に、いつか、必ず連れていくから」
だから、と震える声で凛が懇願する。抱き締める腕に力が籠もる。凛の広い胸に頬をうずめて、遙は心底うれしそうに「うん」と頷いた。
「楽しみにしてる……」
車で送ってくれた友人は、荷物を下ろすのを手伝おうとして、しかしその少なさに驚きの声を上げた。
「これだけかい!?仮にも今日から新生活を始めようって人間が」
少々オーバーリアクション気味の友人に肩をすくめてみせながら、凛は言った。
「前もってあらかた運んであるんだよ。あとは俺自身と、持ち物は片手で足りる」
「へ~え、そんなもんかね」
バタン!と音をたててトランクの扉を閉めてから、彼は辺りを見渡してヒュ~ウ、と軽く口笛を吹いた。
「いい場所じゃないか。町並みもだけど、特にここからの景色が最高だ。長いこと粘った甲斐があったな、リン」
友人の言葉に凛は白い歯を零して笑うと、得意げに片目をつぶってみせた。
「だろ?」
近いうちに祝勝会を兼ねた夕食に招待すると約束して、走り去る車に軽く手を振って見送ってから、凛は小さなボストンバッグを肩に担いだ。
潮の匂いがする。
海の傍のこの町は、小さいけれど静かで、住んでいる人間もとても穏やかだ。数年前に遠征合宿でひと月ほど滞在した時、凛は「ここだ」と直感した。有名な女優や俳優、名の知れたアスリート達も別荘を持つというこの街は、なるほど隠れた人気だけあって、家を探すのにもだいぶ骨が折れた。けれど、ふとした時に波の音が聞こえる場所、いつでも海の匂いを感じられるこの場所を、凛はどうしても諦められなかった。次の借り手がほぼ決まっているという物件を、多少の無茶も言って粘り強く交渉し続けた。そうして苦労の甲斐あって、時間はかかったがようやく手に入れた念願の家は、大きさも間取りも申し分ない、凛にとってまさに理想の寝ぐらだった。
友人は玄関まで送ると申し出てくれたが、それを丁重に断ってまで、敢えて家からは少し離れた場所に車を停めてもらった。その理由。
「あら、リン!お帰りなさい」
ふくよかな年配の女性が、擦れ違いざまにこやかに声をかけてきた。
「あなたってスーツも素敵ね。ずいぶん忙しいようだったけど、もう落ち着いたの?」
「おかげさまで、マダム。今夜からはこっちに居るよ、留守中は色々とありがとう」
そう言って頭を下げた凛に、マダムは「あら、ちっとも大したことじゃないわよ」と人当たりのいい笑みを浮かべた。
「家の中は簡単に片付けてあるし、食糧庫は一杯になるまで詰め込んでおいたわ。朝になったら焼きたての自家製パンを届けてあげる。他にも何か困ったことがあればいつでも言ってちょうだい。お疲れ様、リン。今夜はゆっくり休むといいわ」
頬に軽い挨拶のキスをして、じゃあまた明日、と踵を返した直後に「ああ、そうそう!」と思い出したように彼女が振り返った。
「今朝ね、あなたのプライベート・ビーチの場所を聞いてきた子がいたわ。リンはまだ数日はこっちに来ないんじゃないかしらって言ったのだけど、構わないからって……。ねえ、あなたが言ってた通りの子ね。すぐにわかったわ」
***
さく、さく、歩くたび革靴が砂に埋もれる。堅苦しい会見もロングインタビューも終わり、ようやく晴れて自由の身だ。凛は着ていたダークグレーのスーツの上着を脱いで、ネクタイを勢いよく引き抜いた。ついでに靴も靴下も脱いだところで、両手が塞がった。どうしようか一瞬だけ考えて、すぐに面倒くさくなったのでその場にぜんぶ放り投げた。
「あ~~~!長かった!!」
素足に砂の感触が少しだけ痛くて、けれどそんなことは少しも気にならなかった。――早く、早く。逸る気持ちが凛を追いたてる。――早く、もっと早く!もう一秒だって我慢できない!
背中を押されるように、凛は走り出した。
目の前にはオーストラリアの青い海が広がっていた。
――ずっと、ずっとこれを見せたかった。いつかきっとここに連れてくると決めていた。いつか必ず、お前と一緒にこの海で泳ぐって、それだけを願っていた。なあ、覚えてるか?忘れてねえか?俺は忘れたことなんて一度もなかった。どこに居たって、誰と居たって、俺は――
青くきらめく海の波間の向こうに、その人の姿を見付けて、凛はとびきりの笑みを浮かべた。
「ハル!!」
砂を踏み締めて走る。肩からバッグが落ちたが、構いやしなかった。大切なものはワイシャツの胸ポケットの中にあるのだ。
視線の先で、青い尾ひれがぱしゃんと跳ねた。凛はもう少しも我慢なんてしないで、最後に着ていたシャツを脱ぎ捨てて、自分も海へと飛び込んだ。
手の中に握り締めた約束が、眩しい夏の日差しを受けてきらきら金色に輝いていた。
終